「てらこや」デビューから間もないある日、午後の教員採用試験勉強会を終えた米はフリーになり、小雨の降りしきる中自宅に向かってとぼとぼと歩いていた。
 勉強は思わしくない。ゼミでは優秀だった彼女も、採用試験の勉強は勝手が違っていた。特に面接の練習が苦手だった。人の目を見て話すことができない彼女は、いつも外部の公務員受験専門スクールの講師から注意をされた。自分に自信のない彼女は、指摘を受けるといっそうおどおどして視線がふらつくのだ。
 「ようちゃん、もっと自信をもっていいのに」
 いつもなら、鈴のように明るくよく通る声をもつ美咲が励ましてくれた。だが、今は未来が拓けて希望でいっぱいの親友の声は聞きたくない。「てらこや」運営委員会を初めて休んだ彼女は、逃げるように大学から帰宅の途についたのだった。
 「あ。きれいな紫陽花」
 ふと目を上げると、米の傘の向こうに紫色の紫陽花が見えた。この路地は知らない場所だ。米はいつのまにか紫陽花の咲き誇る小道の異邦人になっていた。
 美しい紫陽花を見ていくうちに、米の心は少し穏やかになった。そして路地を通り過ぎる頃、彼女の目の前に「げんじや」という古書店の看板が見えた。
 結城愛之助の店だ。
 最近、米は愛之助の前に出ると胸がどきどきして、ぎごちない動作になってしまう。だが彼は、そんな彼女の乙女心を知ってか知らでか、常に大人の対応をしてくれる。
 いつのまにか彼は米の心の支えになっていた。
 そんな彼が営む店だ。美咲の報告書によると、いつか源氏物語を読みこなしたい愛之助の書店は、一種独特のスタイルを通しているのだという。源氏を愛する米にはうってつけの店だ。米は思い切って店に足を踏み入れた。
 昔ながらの引き戸を開けて中に入ると、そこはこぢんまりとした店内だが、置いてある書籍はみな源氏物語に関する古書ばかりだった。源氏の古い装丁の書籍、古今東西の源氏の研究書、少年向きに翻案された源氏……すべてが源氏物語に埋め尽くされていた。
 小さな店内は、愛之助の「源氏物語愛」にあふれていた。
「いらっしゃいませ」
奥から若主人の愛之助が出てきた。いつもかけていない眼鏡をかけ、切れ長の目はやさしい光にあふれている。「てらこや」で見るときとは違って、夏用の黒いジャケットをはおった愛之助は、とても知的で大学の若い講師にすら見えた。
 「あ、田村先生。ようこそ。よくここがおわかりですね」
 愛之助は驚いたようだ。
「この近くにある紫陽花の路地を通っているうちに、ここにたどりついたんです」
紫色のペンを愛用する、若紫の君――愛之助の色をまとう紫陽花にひかれたとは、恥ずかしくて言えなかったが、米はしっかりと彼の目を見て事実を伝えることが出来た。大学の外部講師に注意される視線の件も、愛之助がそばにいれば楽にクリアできた。
「そうですか。小さい店内ですが、どうぞご覧ください」
愛之助が店内を案内してくれた。これはいつどこで発行された源氏か。これはどこの国からやってきた翻訳物か。漢字が読みづらい特性をみじんも感じさせない、彼の堂々とした語り方に、米はますますひかれた。
「源氏物語ばかりの古書店、素敵です。なかなか見かけないコンセプトですよね」
「ええ。両親から受け継いだ古書店のスタイルを変えたんです。いつか読みこなしたい源氏物語を、いろいろと集めるところから始めました。僕は文字が読みづらいので、最初は美しい本の装丁だけに目が向いていたんですが、集めていくうちに訳者の違いにも目が向き、やがて海外の源氏も入ってくるようになりました。海外の言葉に訳されたものは読めないのですが、文字の形の美しさにひかれたもの中心に買い付けています」
そこまで米に話すと、愛之助はふっとため息をついた。
「こんなに源氏物語について語れるなんて、とてもうれしいです。田村先生は特別な方ですよ」
愛之助はにこりと笑った。若紫の君の少年の面影を残した笑みに、米の心は弾んだ。
「と……特別な方だなんて」
「本当です」
まだ愛之助はにこにこと笑っている。米は下を向き、恥ずかしかったが思い切って自分の気持ちをほんの少し伝えた。
「私にとっても、結城……愛之助さんは特別です」
そこまで言ったが反応がない。米は恐る恐る顔を上げたが、愛之助はむずかしい顔をしている。
「すみません。何か気に障りましたか?」
愛之助に嫌われたくない米は、こわごわ尋ねた。
「実はね、僕は愛之助という名前にコンプレックスがあるんです」
「あ、私も……私も、田村という名字はいいんですが、下の名前は嫌いです。ですから、美咲に結城さんにその名を呼ばないでほしいと伝えていただいていて」
「そうでしたね。田村先生もご自分の名前が嫌い……僕たち、似ていますね」
やっと愛之助が笑ってくれた。その笑顔は、梅雨間に晴れた日に雨粒を載せて咲く紫陽花のようだ。
「田村先生、時間はおありですか」
「はい、今はフリーですし」
「ちょっと早いですが、店を閉めます。そのあと、近くの公園に行きましょう。僕の過去を、少し聞いてもらいたいのです。田村先生になら、話せます」
「わかりました」
米は愛之助が閉店の準備をする間、外で待っていた。雨は上がっていた。若紫の君の過去を聞けるのなら、自分もその名にまつわる過去を話そう。きっと受け入れてもらえる。
米は、覚悟を決めた。紫陽花の路地から猫が走って行った。その様子を、彼女はやさしいまなざしで見ていた。