「あ、そうそう。この方よ、ようちゃんが担当するのは」
米は、美咲の指さす資料をちらりと見た。
 「結城・・・・・・愛之助さんね」
 「そう、結城さん。日本の古典に関心がある方だから、ようちゃんときっと仲良くなれるよ」
「へえ……。どんな古典?」
「『源氏物語』よ。ようちゃんと同じだね。結城さんは古書店を経営している方なんだけど、まだ若いお兄さんよ。実は学習障がいがあって、漢字が読み書きしづらい特性をもっておられるの。でも、『源氏』をいつか読みこなしたいんだって。それで一念発起して、ここで学び直しているらしいわ」
「そう。すごいね。私にはもったいないくらいの生徒さんかも。私、暗いし性格悪いし」
「そんなことないよ」
慰める美咲の、きらきらした希望の詰まった宝石箱のような瞳を見るのがつらくて、米は目をそらした。
(私は、結城さんという方には嫌われるかもしれないな。心が醜いもの)
 考え込んだ米に気づいているのかいないのか、美咲が明るい声で言った。
「ようちゃんの名前のこと、結城さんにも伝えておくから。気にしないでね」
美咲は、米が自分の時代がかった名前を気にしているのを知っているので、わざと「ようちゃん」と彼女を呼んだ。ありがたく思ってきた米だったが、今だけはこの美咲の言葉が気にくわなかった。
(気にしないでなんて言いながら、より気にさせているじゃないの。余計にこの名前を強調したがっているみたい)
米は、もう美咲のことを、羨望というより闇の蛇がまとわりつく、呪いのような妬みの感情で曇った色眼鏡でしか見られなくなっていることに気づき、再度自己嫌悪に陥った。
「ありがとう、美咲」
気持ちのこもっていない、空気のような感謝の言葉をぶつけると、それでも美咲はにっこり笑った。
「よし、引き継ぎおしまい! さあようちゃん、行ってらっしゃい。うまくいくといいね」
「・・・・・・行ってきます」
自分のねっとりした嫉妬から逃れられる。米はほっとして結城愛之助の書類を受け取り、ファイルに収めてから愛用の鞄にしまった。「てらこや」開始までにはまだ時間がある。それまでに改めて目を通すつもりだった。
部室を出ると、夕闇から夜へと時間が溶け込みかけていた。少し湿気を含んだ空気は、それでも部室と米の心によどんだ澱を発散してくれた。
数十分後、米は「てらこや」の教室へ向かった。その日の出会いが、いつまでも忘れられない大切な記憶のかけらになるとは予想もせずに。