「ようちゃん、待ってたよ! 」
今夜が初めての「てらこや」教師デビューという日、米は前任の榊美咲(さかき みさき)から引き継ぎをするために、早めにサークルの部室へ向かい、ドアを開けた。美咲と米は仲がよく、いつものようにほほえんで挨拶をかわした。
「これ、引き継ぎの資料ね。詳しいことは家で読んでくれたらいいけれど、とりあえず今夜参加の生徒さんのことから説明するよ」
美咲は茶髪のポニーテールをさっと整えた。今日はさわやかな初夏とはいえ、少し湿度が高い。米もそのショートボブの後れ毛が張り付いた首筋を、そっとハンカチで拭った。
美咲は手際よく説明をしてくれた。彼女は英文科で、英語の教員を目指している。そして、私立高校の内定を獲得しているので、どこか態度に余裕があった。今度米に「てらこや」教師を引き継いでもらうのも、ここで腕を磨いてほしいし、教育の原点を知ってもらいたいのと美咲は言った。
だが、これから受験する立場の米としては、親友の言葉をありがたく思いつつも、彼女の内定を素直に喜べない澱のようなものが、心によどんで溜まっていった。
みにくい嫉妬。幼稚な反発。米は、この感情と向き合うたびに、自分が本当は教師に向いていないのではないかと弱気になるのだった。
「・・・・・・それで、今日来る生徒さんには、外国の方はいないからね。私は英語を使って日本語を教える機会があるかと思っていたんだけど、意外に英語ができる人ばかりじゃなくてね。当たり前のことだけど、日本に来る人みんなが英語を知っているわけじゃないんだよね。国際化とか言うけれど、現実はそんな感じ。英語を使えたとしても、単語を並べることが出来る人はまだいい方で、私はよく絵を描いて教えたり、ボディランゲージに頼ったりしてたな。こちらの方がコミュニケーション能力を鍛えられたよ」
美咲が、懐かしそうにある生徒の書類を見つめる。その女性は東南アジアから日本にやってきたのだが、言葉ができないのでここ「てらこや」で学ぶことになった。だが、年配の日本人男性である女性の夫は、若い彼女をかわいがっていたものの、こうした場で日本語を学ぶことに反対して学級をやめさせてしまった。そのことを美咲はとても悔しがっていた。