愛之助は、米の声を耳にしながら、意識を取り戻すことなく25年の生涯を閉じた。病院で彼の家族とともに最後の対面を終えた米は、目を真っ赤にした香織から一冊の紫色のノートを手渡された。
「これ、愛之助の私物よ。あなたが持つにふさわしいわ」
彼女はただそれだけ告げると、忙しそうに立ち去った。現実を受け入れられず呆然としていた米は、機械的にノートを開いた。
そこには、愛之助の筆跡でたくさんの「愛」という漢字があふれんばかりに練習されていた。最初は鏡文字が混じっているが、あとの方になるにつれてきちんとした漢字が綴られている。米は、愛之助の練習帳をめくりながら、彼と「てらこや」で過ごした日々のことを思い返していた。
愛之助さん。愛さん。ありがとう。
それまで悲しみの涙を流していた米は、自然とやさしく微笑んでいた……。

「受験者の方は入室してください」
過去を思い返していた米は、愛之助のノートを持って教員採用試験会場に入室した。机に向かうたくさんのライバルたち。
以前の米なら、おどおどして自分の力を発揮できなかっただろう。だが、今の米は心から勇気があふれていた。
「テキスト、ノート類はかばんの中にしまい、机の上には受験票と筆記具だけを用意してください」
監督者の声に、米は紫色のノートをもう一度抱きしめ、大切にかばんの中にしまった。そして、紫色のシャープペンシルを机の上に置いた。
遺族から愛之助の形見として譲り受けた筆記具だ。
「試験始め!」
試験監督が号令をかけた。米は形見のシャープペンシルを握り、問題を解き始めた。
(愛さん。愛さん。あなたの力を分けてください。心の宝物を分け合った日々を過ごしたこの私に)
 書き連ねる文字があふれていった。力がわいてきて、すらすらと問題を解いていく。
窓の外には、秋空が広がる。澄んだ空の向こうから、窓際に座る米の横顔に陽光が差し込んだ。
米の美しい黒髪は、ひかりを受けて艶を放ってきらめいた。あふれる光、あふれる思い出に、米はうっすらと笑っていた。

(了)