「愛之助さん、行ってきます。見守っていてね」
秋晴れの今日は、県立高校教員採用試験の一次試験だ。受験生たちが、緊張の面持ちで会場に入っていく中で、一人の女子大生が目を閉じて、一冊の大学ノートを胸に抱きしめていた。一冊の大学ノートを胸に抱きしめていた。ノートの表紙は濃い紫色で、上質な紙が使われており、大人の男性にふさわしい文房具だ。
彼女がまるで大切な誰かを抱きしめるように、愛おしげにかすかに振える様子を気にとめる者は、誰もいなかった。
だが、彼女の周囲は確かに時計が針を止めていた。鈍いひかりを放つアンティークのネジ巻き時計が、しずかにその動きを止めるとき、最初は誰も気づくことがない。けれど秒針の刻むかすかで規則正しい未来を招く音が聞こえないことに気づくのは、いつもその時計を家族の一員であるかのように愛していた少女であったりもするものだ。
少女と言うには年かさの、大人になる階段を上り始めて間もない彼女は、意を決したように歩き出した。ノートをかばんに収めることはせず、いかにも受験対策の問題集か参考書を後生大事に持っているかのように歩を進める。そして、彼女は受験票をハンドバッグの中から取り出した。男性係員が事務的な口調で素っ気なく注意を促す。
「受験票のご提示をお願いいたします」
「はい。これです」
「田村・・・・・・米(よね)さん? 」
「はい」
彼女は、ノートを抱いたまま胸を張った。
「私は、田村米です」
米は、青年の顔を見つめた。年若い彼の顔が、どことなく大切な人――結城愛之助(ゆうき あいのすけ)に似ているような気がして、米は思わずその男性に声をかけそうになった。
――愛之助さん、愛さんと。