○第3話の続き、寮、リビング(夕方)

ソファの上で、蒼に覆いかぶされる煌莉。
徐々に近づいてくる蒼の顔に、困惑する煌莉。

煌莉「まっ…待って、蒼っ…」

蒼の胸板に手をつく煌莉。
しかし、その固い胸板は煌莉の力では到底跳ね返すことなんてできない。

蒼の熱を帯びた瞳を見たらなぜか拒むことができず、覚悟を決めて唇をキュッと噛む煌莉。
目もギュッとつむる。

――そのとき。

蒼「なにかついています」

蒼の細くて長い指で、そっと煌莉の目元に触れる。

強くつむった目を開けて見てみる煌莉。
蒼の指に、小さくて細かい黒いものがついていた。

煌莉「…マスカラ?」

煌莉がぽつりと呟くと、体を起こしてマスカラのついた指を眺める蒼。

蒼「これがマスカラ…ですか。目尻のところについています」

キスされるかもと思っていたが、拍子抜けする煌莉。
煌莉は、すぐそばのテーブルの上にあった手鏡を手に取って見ると、左目の端に取れたマスカラがついていた。



○(回想)寮、煌莉の部屋(夕方)

先ほどのまくらに顔を押しつけて、大きなため息を吐く煌莉。

煌莉(きっとあのときに…、メイクが崩れてしまったんだ)

(回想終了)



○回想前の続き、寮、リビング(夕方)

蒼は何事もなかったかのように起き上がると、煌莉を抱き起こす。

煌莉「…ありがとうっ」

煌莉(取れたマスカラを指で払ってくれようとしただけなのに、わたしったらキスされるかもと思って…恥ずかしい)

恥ずかしさで、蒼の顔を見れない煌莉。

煌莉(…穴があったら入りたかった)

頬を赤くする煌莉。
しかし、すぐにハッとする。

煌莉「そ…そんなことよりも!蒼、早く上の服着てよ…!」

蒼「え?」

煌莉「そんな格好のまま、うろうろしないでっ…」

蒼から顔を背ける煌莉。

煌莉(ただでさえ、さっきのハプニングでドキドキしているというのに、目のやり場に困るから早く服を着てほしい…!)

煌莉の言っている意味がわからず、キョトンとする蒼。

煌莉)蒼ってば、SPの警護に関することには完璧なのに、こういうことには無頓着なんだからっ…)

蒼にチラッと視線を送る煌莉。
すると、蒼の左脇腹の辺りに、斜めに一直線に入った傷跡が目に入る。
それを見て、ハッと驚く煌莉。

煌莉「……っ……!」

思わず、煌莉は言葉に詰まる。
眉を下げて、表情を曇らせる煌莉。

煌莉(…わたしは蒼に、ひどいことをした。あの一生消えることのない傷跡は、わたしがつけたのだから。『あのとき』、蒼はわたしのせいで――)



○(回想)煌莉と蒼が小学6年生の頃

幼稚園の制服を着て並ぶ、幼い煌莉と蒼。
ランドセルを背負って並ぶ、小学生の頃の煌莉と蒼。

煌莉(同じ幼稚園から、同じ小学校へ入学したわたしと蒼。蒼とは、6年間同じクラスだった)

手を繋いで微笑み合う、小学生の頃の煌莉と蒼。

煌莉(幼い頃から仲のいい幼なじみ。わたしと蒼は、いつもいっしょだった)



○(回想の続き)小学校、校舎裏(昼休み)

人気のない校舎裏で、上級生たちにいじめられる煌莉。
そこへ駆けつける蒼。

煌莉(わたしが上級生にいじめられたときだって、すぐさま駆けつけてくれて、守ってくれた)

自分よりも体の大きな上級生たちに対して、怯むことなく立ち向かう蒼。

煌莉(そういえば、あの頃にも「確保」と言って、わたしをいじめていた上級生を押さえつけてくれていたっけ)

上級生を1人で蹴散らす蒼に見惚れる煌莉。

煌莉(強くて頼もしい蒼はわたしの憧れで、いつの間にか好きになっていた)



○(回想の続き)学校からの帰り道(夕方)

煌莉(――だけど、わたしたちが小学6年生のある日。ある出来事が起こった。)

雨上がりの帰り道を並んで歩く煌莉と蒼。
そこへ、煌莉たちの横につくように、黒のワンボックスカーが止まる。
後部座席のスライドドアが開いたかと思ったら、中から覆面をした男が現れた。

予期せぬ事態に、体がこわばる煌莉。
声を上げることすらできない。

そんな煌莉の口を覆面男が煌莉の背後から腕をまわして封じる。
そのまま煌莉をワンボックスカーの中へ引きずり込む。

後部座席へ突き飛ばされる煌莉。
閉まろうとする後部座席のスライドドア。

そのとき――。

蒼『…煌莉ッ!!』

閉まりかけるドアに手をついて、1人で車の中へ乗り込んでくる蒼。
そして、男に飛び蹴りを食らわす。

一瞬怯んだ男の隙を突いて、煌莉の腕をつかむ蒼。

蒼『逃げるぞ!』

足に力が入らない煌莉を車から引っ張り出す蒼。

煌莉(その蒼の勇敢な姿は、今でも目に焼きついている)

蒼に見惚れる煌莉。
車から外へ逃げ出す蒼と煌莉。

――ところが。

蒼『……くッ…!!』

わずかに息を漏らした蒼が、車の脇で膝をついて倒れ込む。

煌莉「そ…う…?」

蒼の後ろで、尻もちをついてしゃがみ込む煌莉。
思いもよらない光景に、煌莉は目を大きく見開く。

なんと、蒼の左脇腹あたりの服が赤く染まっていくのだった。

覆面男『…ったく、手間かけさせやがって。ガキはガキらしく、おとなしくしてろ!』

蒼に言葉を吐き捨てる覆面男が車から路上に出てくる。
そ右手には、銀色に鈍く光るナイフが握られてイた。

ようやく蒼が倒れた状況を把握する煌莉。

煌莉『…蒼っ!!』

尻もちをついた体勢から、蒼に駆け寄ろうとする煌莉。

蒼『くるな!』

煌莉のほうを振り返ることなく、覆面男に目を向けながら大きな声でそう叫ぶ蒼。

蒼『お前は逃げろ…!こいつらの狙いは煌莉だ!ここは、俺が食い止める!』

蒼はなんとか立ち上がると、右手で左脇腹を押さえ、左手で傘を剣のようにして男に突きつける。

覆面男『ハハッ!そんな傘でなにができるって言うんだよ!?』

蒼をあざ笑う覆面男。

蒼と覆面男が向かい合う様子を震える体で見つめることしかできない煌莉。

煌莉(…わたしは、こわくて仕方がなかった。自分が男に連れ去られそうになったからじゃない。蒼がわたしのために体を張って、勝てないとわかっている相手に立ち向かおうとしていることに)

煌莉『…蒼、やめて!』

蒼『心配すんな。俺はやられねぇから』

劣勢にも関わらず、煌莉に心配させまいと笑ってみせる蒼。

煌莉(そんなこと言ったって、すでに蒼はケガをしている…)

涙で、無謀な蒼の姿がぼやけて見える煌莉。
――そのときを

警察官『そこっ!なにしてるんだ!!』

そんな声が聞こえて驚いて振り返る煌莉。
遠くのほうから、自転車に乗った警察官が駆けつけてくるのが見えた。

覆面男『…チッ!邪魔が入った!』

覆面男は後部座席から運転席にそう伝えると、すぐさま車のドアを閉める。
そして黒いワンボックスカーは、逃げるようにその場から走り去った。

煌莉『蒼…!!』

煌莉に背中を向け立っていた蒼が、地面に崩れ落ちる。
慌てて蒼の体を抱き起こす煌莉。

蒼『煌莉…、ケガはないか…?』

煌莉『わたしは大丈夫だよ…!でも…蒼がっ!』

蒼『俺だって、こんな傷…たいしたことねぇよ』

煌莉に笑って見せる蒼。
しかし煌莉は、蒼が痛みに耐えながら強がっていることは嫌でもわかっていた。

〈偶然にも、パトロールで巡回していた警察官が居合わせたことで、誘拐犯はそれ以上危害を加えることなく逃げた〉
〈そして、蒼はすぐさま病院へと運ばれた〉



○(回想の続き)病院、手術室前(夜)

手術室前で落ち着かない様子を見せる蒼の両親。
手術室前のイスで、両親に肩や背中を擦られながらうつむく煌莉。

血がにじむ脇腹を押さえる蒼の姿が脳裏に焼きついて思い出してしまう煌莉。

煌莉(蒼が死んじゃうんじゃないかと思ったら涙が次々とあふれ出た)

こらえきれなくなった煌莉は、声を殺しながらも母親の腕の中で泣いていた。

〈蒼は幸い、命に別状はなかった〉
〈その後、誘拐未遂の罪でワンボックスカーに乗っていた2人組の男たちは逮捕された〉

煌莉(この事件を機に、パパはわたしにボディーガードをつけるようになった)



○(回想の続き)病院、蒼の病室(昼)

病室のベッドで横になる蒼に、何度も謝る煌莉。
蒼は笑って、顔の前で手を横に振る。

煌莉(わたしのせいでケガをしてしまつまたのに、蒼は笑って「煌莉が謝ることじゃない」と言ってくれた)

そんな蒼の姿にキュンとする煌莉。

煌莉(そのときわたしは気づいてしまった。命がけで守ろうとしてくれた蒼のことが好きだと)

〈その後、蒼はしばらくして入院した〉
〈煌莉は、毎日のようにお見舞いへ行った〉



○(回想の続き)小学校、教室(昼休み)

〈退院後は、いつもと変わらない生活を送れるようになった蒼〉

蒼が隣にいる日々。
煌莉は、蒼の仕草ひとつひとつにキュンとして、頬を赤くする。

これまで蒼と普通にしていた手を繋ぐことも、顔を真っ赤にして恥ずかしがる煌莉。



○(回想の続き)小学校、校舎裏(昼休み)

煌莉(わたしは、これからもずっと蒼の隣にいたい。そう思った。――だから)

葉桜になった木の下で、向かい合う煌莉と蒼。

煌莉『…蒼。好きっ…』

頬ほ赤らめながら、手をもじもじさせて告げる煌莉。

煌莉(これが、わたしの生まれて初めての告白だった。自分から告白するだなんて、わたし自身が一番驚いた。でもそれくらい、蒼のことが好きだった)

上目遣いで、チラリと蒼に視線を向ける煌莉。

〈しかし――〉

煌莉に対して、冷たく背中を向ける蒼。

蒼『煌莉の気持ちには応えられない』

蒼はそれだけ言うと、煌莉のほうを振り返ることはなかった。

煌莉をその場に残し、去ってしまう蒼。
煌莉は呆然として立ち尽くす。



○(回想の続き)小学校、教室(昼休み)

教室内で走り回る子どもたち。
そんな中、壁にもたれかかりながら男友達や女友達と話している蒼。

その様子を自分の席に座りながら、遠くから眺める煌莉。

煌莉(振られてからは、蒼との気まずい日々が続いた)

すれ違っても、目も合わせず、言葉もかけない煌莉と蒼。
うつむきながら、お互いのそばを通り過ぎる2人。

煌莉(――そして。ある日、蒼はわたしの前からいなくなった)

空席となった蒼の座席を見つめる煌莉。

煌莉(突然の転校だったのだけれど、わたしはなにも聞かされていなかった。だから、そのとき悟ってしまった。蒼がわたしの告白を振ったことは、ただのきっかけにすぎない。本当は、わたしの顔も見たくなかったのだと)

誘拐未遂事件での、ケガをした蒼のことを思い出す煌莉。

煌莉(心の中では、一生傷を残したわたしのことを恨んでいる。だから、わたしになにも告げずにどこかへ…。わたしは蒼に、なんてひどいことを――)

(回想終了)



○寮、リビング(夕方)

煌莉(あの傷を久々に見たら、『あのとき』の記憶が再び蘇ってしまった)

蒼「どうかしましたか?」

部屋着を頭から被って袖を通した蒼が、不思議そうに煌莉を見下ろす。

煌莉「…ううん、なんでもないの」

煌莉はうつむいてそうつぶやくと、逃げるように自分の部屋へ行った。



○寮、煌莉の部屋(夜中)

ベッドに横になりながら、ぼんやりと天井を見上げる煌莉。
なかなか眠ることができないでいる煌莉。

煌莉(久々に再会した蒼が、人が変わったようによそよそしく、敬語で冷たかった理由。それはやはり、わたしが追わせてしまったあの傷にあるに違いない…)

そんなことを考えていると、さらに眠ることができずに時間が過ぎていく。

煌莉(…そして、わたしが眠れない理由は他にもあった。それは――)

…ゴロゴロゴロ

煌莉の部屋に聞こえる雷の音。
突然夜空が明るくなり、地響きのような大きな音が暗い部屋に轟く。

煌莉「キャッ…!!」

驚いて、頭から布団をかぶる煌莉。

〈今日の天気予報では、夜から大荒れになると言っていた。それが的中したのだ〉

夕食後から、徐々に厚くて黒い雲に覆われる夜空。
のちに、激しい雨が降り始める。

ひっきりなしに、雨粒が窓を激しく叩く。
窓の外には、稲光が走っている。

布団にくるまって、どうにか眠ろうとする煌莉。
しかし、雷の音がうるさくてまた目が覚めてしまった。



○寮、リビング(夜中)

寝付けない煌莉は、仕方なくリビングへ。
心を落ち着かせるために、ホットココアを作る煌莉。

ソファの上で、膝を抱え込むようにして丸くなり、ホットココアのカップに口をつける煌莉。

煌莉(今は、電気をつけているから少し平気。真っ暗の中での雷の音が苦手なのだ)

ココアを飲み終え、気が乗らないまま自分の部屋に戻ろうとドアノブをひねったとき――。

蒼「…煌莉様?」

ふと、隣の部屋のドアが開く。
出てきたのは、蒼だった。

煌莉「蒼っ…。ごめん、起こしちゃった…?」

蒼「お気になさらないでください。煌莉様が起きていらっしゃるような気がして、勝手に目が覚めただけです」

蒼を起こしてしまったことを申し訳なく思う煌莉。

煌莉「それじゃあ、わたしは戻るね…!」

これ以上、蒼に迷惑をかけられないと思い、そそくさと部屋へ戻ろうとする煌莉。

〈――そのとき〉

蒼「お待ちください」

蒼がそっと、ドアノブを握る煌莉の手を包み込む。

煌莉「…蒼?」

驚いて蒼を見上げる煌莉。
蒼はじっと煌莉のことを見つめている。

蒼「震えてる」

煌莉「え…?」

蒼「煌莉様の手…、震えています。手だけじゃない、体だって」

ハッとする煌莉。
雷が鳴るたびに、全身が震えていたことに蒼に言われて初めて気づいた。

蒼「…もしかして。雷がこわいの、まだ治っていなかったんですか?」

蒼の問いかけに、ゆっくりとうなずく煌莉。

煌莉(こんな歳になってまで、まだ雷をこわがっているだなんて…。きっと蒼に笑われる。そう思っていたら――)

背中がぬくもりに包まれる煌莉。
驚いて顔を上げると、後ろから蒼が抱きしめていた。

煌莉「そ…、蒼…!?」

突然のことに、煌莉の顔は一瞬にして真っ赤になる。

蒼「煌莉様が雷が苦手なことは前から知っていたのに…。気づくことができず…申し訳ございません」

煌莉「そんなことっ…」

煌莉(蒼が謝ることなんてないのに――)

煌莉は照れながらも、蒼の腕に包まれるのが心地よく、時が止まったかのようにしばらく蒼に後ろから抱きしめられる。

蒼「これで…少しは落ち着きましたか?」

煌莉の耳元で囁く蒼。

煌莉(…少しなんかじゃない。蒼の温かい体温が心地よくて、雷のことなんてすっかり忘れて酔いしれてしまっていた)

蒼に顔を向ける煌莉。
心配そうに煌莉を見つめる蒼。

煌莉(蒼はSPとして、雷をこわがるわたしのために…こうしてくれてるんだよね?そうだとわかっていても――。わたしの鼓動は、蒼にバレちゃうんじゃないかと思うくらいドキドキしている)

煌莉「う…うん、だいぶ落ち着いたっ。ありがとう…!」

蒼に後ろから抱きしめられて、平常心を装うので精一杯の煌莉。
そうして、蒼から離れて自分の部屋へと駆け込む煌莉。



○寮、煌莉の部屋(夜中)

部屋のドアを閉め、そのドアに背中をつける煌莉。
さっき後ろから抱きしめられたことを思い出して、また顔が赤くなる煌莉。

煌莉(蒼は、わたしのことなんてなんとも思っていない。だから、自然とこういうこともできてしまう。だけど、わたしは――)

真っ赤な顔を両手で隠し、その場にしゃがみ込む煌莉。

煌莉(パパの頼みで、仕方なくわたしのそばにいるのだってわかってる。SPとして警護対象者を落ち着かせるためにああしていることもわかってる)

力なくベッドに倒れ込む煌莉。

煌莉(――それに、警護対象者とSPは恋愛禁止だっていうこともわかってる。それでもわたしは――。…やっぱり、蒼のことが好きっ)

再び蒼への想いがあふれ出し、胸のドキドキを抑えられない煌莉は布団の中でうずくまる。