父と娘



彼は”それ”から何メートルだか何十メートルだかは定かでないが、それなり日に離れた場所に立っているはずのに、なぜか目の前の光景として見えていた。
いわば、倒れた柳の木の間近かにいる距離感だったのだ。

それを彼は、ただじっと眺めているだけだった。
厳密にはのぞき込んでいた。
倒木がめりこんだ地面を…。

いや‥、それは見せられている…、目を向けさせられている…。
彼の感覚では、そんな形容が正しかった。


***


”うん…?倒木で地面が掘り起こされたのか、突起した土がもこもこ動いているぞ!”

彼は”それ”を、ほぼ真上から”見つめている”格好だった。
果たしてどのくらいの時間、こうしていたのか…。

かくて、ある瞬間…。
もこもこと盛り上がる掘り起こされた土の中から、”あるモノ”がグイーンと丸島の元へ伸びてきた。

”ギャー!人間の手だ!助けてくれー!!”

丸島の声はここの空間では反応されない。
従って、心の中で叫んだということになる。

その両の手は彼の首を捕らえ、瞬時にそのまま地面の中へ引っ張り込んでいった。

”ギャーー!!”

丸島は頭から地面へ飛び込むように引きずり込まれ、全身が柳の大木の根本から地中深くに消えた。
その後はただ静寂と静止がいつまでも続くだけであった…。


***


「わー!!助けてくれー!」

「あなた…!なによ、また変な夢?」

「ハア、ハア…、ああ、なんか一昨日と同じような…。なんかでっかい木が出てきて…」

「え?同じ夢ってこと?」

「いや…。ただ、”空間”が一緒だった感じがした。まあ、所詮夢だし…。大丈夫だ。すぐ眠れるよ。悪い、起こしちまって」

「うん。じゃあ…」

妻のアカリも、幼い孫娘と一日付きっ切りで疲れていたのだろう。
瞼を半分閉じた状態のまま、夫の様子を確認すると寝返りをうってすぐに寝息を立てていた。

一方、丸島はしばらく目がさえて眠れなかった。
薄らぼんやりとした夢の中の情景ではあったが、柳の木ははっきり”前回”と同じだったと確信できたのだ。

”でも、あの柳…、うす暗くてよく捉えられなかったが、上の方が曲がっていて…、やはりどこかで見てことがった気がする…”

そんなことを考えながら、30分ほどすると再び眠りについてしまったが…。


***


「おかあさん、おじいちゃん、行ってらっしゃーい!」

「はは…、行ってきます」

「行ってくるわね、リカ。ちゃんとおばあちゃんの言うこと聞いて、いい子にしてるのよ」

「はーい!」

リカはおばあちゃんと門の外まで出ると、手を繋いでお母さんとおじいちゃんの二人の学校の先生を見送った。

「おかあさんとおじいちゃんも、こうやってお手々つないでいけばいいのに…」

リカの隣で祖母のアカリは思わずのけ反っていた。


***


「そう言えば…、和田の教え子で物理を教えてる、ええと…」

「手嶋先生ね。熱心ないい先生よ。結構、気も合ってる」

「そうか…。なんでも登山が好きで、今度和田が3人でどうだって言っててな。そうだ、奈緒子も挑戦してみるか?」

「はは…、私は山登り無理よ。でも誘ってやって、手嶋先生はさ」

電車内の会話はそこそこ滑らかではあったが、案の定、丸島は盛んに額の汗をハンカチで拭っていた…。


***


「昨日のハガキで届いた同窓会、行くんでしょ、お父さん?」

「いや、どうしようか迷ってる。…お父さんな、最近になって気づいたんだ。昔の教え子に会って、皆が皆感謝してくれてるとは限らないってな。逆に言えば、つい最近まで気が付かなかったってことになる。大切なことなのに…」

”お父さん…”

奈緒子がこんな表情でこんな言葉をしみじみと漏らす父を見るのは、おそらく初めてだったろう。

「じゃあ、オレはお先にここでな…」

「うん。行ってらっしゃい」

「奈緒子も学校、頑張れ」

「…」

閉じた電車の扉から眺める父の後ろ姿…。
この時の奈緒子は、どこか愛おしい気持ちが湧いてくるのを禁じ得なかった。


***


”…教師たる者は、常に背伸びしながらじゃないと続かないんだ!”

これは、幼いころから何度も聞かされた父の口癖であった。
奈緒子にとって、それはできれば耳をふさぎたいほど、不快感を訴える言葉だに他ならなかった。

”家の中で、家族に向かってそんなこと呪文みたいに年中…、バッカみたい!”

これが奈緒子の偽らざる気持ちだった。
だが…、同じ高校教師という職業に就いて、自分が無意識にでも”背伸び”しながら踏ん張ってることは、結構早くから自覚していた。

今、目にした定年を控える父の学校へ向かう姿…。
彼女は言いようもない感傷に襲われていた。

果たしてそれは、同じ教職の立場からだったのか…、それとも娘として捉えた目線からだったのだろうか…。