土曜日、昨日の放課後に返すつもりだった辞書を友人の家に届けに来た。

約束をしていない休日で、渡したらすぐに帰るつもりだったのだけれど、辞書を差し出した手とは逆の手首をつかまれる。


「なに? これ」

「いや、あの……ちょっと、擦った……?」


城坂くんの爪で、とは言えずにしどろもどろに誤魔化す。

手の甲の傷は蚯蚓脹れになっていて、今朝も赤みが引いていなかった。


「どう擦ったらこんな傷になるのよ。誰?」

「わたしの不注意だから、平気だよ」


つかむ力が弱った隙に手を引き抜いて、後ろに隠す。

友人──柚木涼花は怪訝そうな顔でわたしの顔をじいっと覗き込む。


「クラスが離れたからって遠慮しなくていいから。何かされたらすぐに言いなよ」


誰に、とは言わず、涼花はぐっとわたしの肩に置いた手に力を込める。

涼花とは去年同じクラスで、城坂くんとは中学校で面識があるらしい。

何となく、わたしと城坂くんに確執があることを察しているようで、それとなく庇ってくれていた。


「ありがとう、涼花。また学校でね」


上手に隠すこともできないくせに、何も説明かできない心苦しさで無理に笑みを作る。

涼花はもう一度念押しして、玄関先から見送ってくれた。


帽子をかぶり直して、今日はもうひとつ目的があることを思い出す。

けたたましく鳴くセミも、アスファルトの焼ける臭いも、足元から意識を拐おうとする熱も、煩わしくて仕方がない。

わたしが一度この町を去ったのも、こんな暑い日だった。


記憶の奥底で錆び付いていた思い出の道を辿る。

懐かしい景色が、大差ない現在の風景と重なって境界を溶かす。


所々に寂しげな空き地を残す住宅街を抜け、沿道を歩いて行くと、小さな小川に出る。

向こう岸では、小学生の子どもたちが遊んでいた。

苔の生えた段差を下り、水面に近い段に座る。

水面に手のひらを押し付けると、一瞬境目を感じて、すぐに飲み込まれていった。


手のひらの熱が拐われていく。

気持ちがよくて目を伏せていると、ポケットに入れた携帯が震えた。

着信相手の名前は予想通り。


「もしもし?」

『あ、芭流。用事は終わった?⠀昴流の迎えに行ってほしいんだけど、どう?』

「17時だよね?⠀それなら行けるよ」

『そうそう。じゃあ、お願いね』


早口で告げると、わたしの返事を待たずに通話が切断される。

きっと仕事が忙しいのだろう。

用事を済ませてからでも昴流の迎えには間に合う。


水に浸していた手を払って立ち上がり、目的の場所へ急いだ。