「橘、じゃなくてさ」
ゆっくり紡がれる言葉は転がるように楽しそうだ。
「知春先輩って呼んでくれない?」
「⋯⋯え?」
「苗字で呼ばれると距離感じるじゃん。だから俺のことは知春先輩って呼んでよ」
「⋯⋯橘先輩でいいと思いますけど」
だって、わたしは彼と親しくするつもりもなければ、友達でもないわたし達が今後会うことなんてほぼないわけで。
廊下で見掛けて「知春先輩!」と駆け寄る事もないだろう。
「これ先輩からのお願いな」
「⋯命令って事ですか?」
「お願いって言ってんじゃん」
先輩という武器を盾にされては、後輩としては断りづらい。
命令のくせしてお願いという所が狡い。先輩なら後輩の気持ちを察して欲しいところだ。
⋯でも、どうせ、今日この瞬間だけだ。
「知春先輩⋯」
「うん」
「ちなみに字は知る春で知春な。ともはるとよく間違えられるけど」
「漢字なんて聞いてません」
「可愛くねーなあ」
可愛くなくて結構。
フイッと顔を窓の方へと向けたわたしにクスクスと笑う知春先輩の声が聞こえた。



