うばわれたのは、こころとくちびる

 金を入れろと男がレジに置いたカバンすら湯瀬さんは武器に変え、容赦なく男の顔面にぶつける。攻撃力はあまりないだろうが、視界を一瞬奪うにはちょうどいい代物だった。

 勇猛果敢に攻める湯瀬さんがレジカウンターの外に出る。次は何をするのかと息を呑んでその光景を眺めていれば、湯瀬さんは、頭に血が昇っている大柄な男に躊躇なく近づき、そして、平然と口にした。

「床に、金があるね。拾って。拾わないと、殺す」

 柔らかい口調でありながら、凍えるような恐怖を覚える声だった。男の脅迫など比べ物にならない。同じ殺すでも、意味も温度も効果も、全く違う。違いすぎる。

 どうしよう。どうしたらいい。湯瀬さんから、目が、離せない。湯瀬さん。湯瀬さん。湯瀬さん、何者。

 男は湯瀬さんの醸し出す冷たい恐怖に完全に戦意が喪失してしまったのか、逃げるように店内から出て行った。陽気な音楽が、逃げた男の痴態を嘲笑っているかのよう。男は金欲しさに押しかけて来たのに、結局一銭も奪えずに恥を掻き、トラウマになるような恐怖を植え付けられて帰っただけだった。

 嵐が過ぎ去り、また俺と湯瀬さんの二人きりになった店内で、湯瀬さんは自分で投げて落とした金をしゃがんで拾い始めた。もういつもの湯瀬さんだった。

 手伝おうと、ずっと隠れていたのに今更顔を出すなんて卑怯だと思いながらも歩み寄り、転がっていた、予想通りの硬貨、五百円玉を、一緒になって拾い集める。湯瀬さんは口を開かなかった。