うばわれたのは、こころとくちびる

 従わなければ殺す。のろのろしていても殺す。殺すと言って武器を見せれば、大抵の人は怯える。相手に殺す度胸がなかったとしても、殺意を向けられるのは怖い。自分が脅されているわけでもないのに口が渇いた。湯瀬さんが危ない。

 とにかく警察を呼ぼう、呼ばなければと思った。自分にできるのはそれくらいだと思った。

 ポケットを弄った。何もなかった。反対側も弄った。何もなかった。あれ、あれ、と焦りが募る。ない。ない。どこにもない。スマホがない。

 動作を止め、数秒、考える。床の一点を見つめ、数秒、考える。そうして唐突に、降ってくるように、舞い降りてくるように、家を出る時の自分の挙動を思い出した。

 酒を買いに行くだけだったため、スマホは必要ないだろうと机に置いたまま出ていってしまっていた。

 家に取り残されたスマホが走馬灯のように頭に浮かぶ。遠隔操作などできない。

 事件を目の前にしているにも関わらず、警察を呼べないことに顔から血の気が引くのが分かった。俺が今手にしているのは、酒を買うためだけの容量の少ない財布と、俺の手をどんどん冷たく濡らしていく無骨な酎ハイだけだった。

「このカバンに金を入れろ」

 無能であることを嘆いていても、男も時間も待ってはくれない。湯瀬さんが危ないことに変わりはない。