透明を編む 【完結】

「事故で両耳の聴力をほとんど失った時、すごく怖かった。輝いて見えていたはずの未来が真っ暗になって、生活が一変して、世界にわたしだけが鳥の残された様な感覚がした」


あの頃の絶望はもう今後の人生で二度と味わう事はないだろうと思うくらい、わたしの全てが闇に包まれた気がしていた。


「たくさん泣いたし、どうして?ってなんでわたしがこんな目に遭わなくちゃいけないの?って毎日思った。お母さんに八つ当たりもしたし、⋯⋯今だってたまに泣きたくなる時がある」

「(⋯⋯六花)」


じっと千冬の顔を見ながら話すわたしを前に千冬はずっと泣きそうな顔をしている。

そういえば、事故の前から千冬はあまり感情を表に出さないタイプだったけれど事故後それはより一層強まった。

というよりは、事故の後千冬はわたしに冷たい瞳か苦しそうな顔しか見せてくれなくなった様に思う。


病室で話をしていた時もそう。

わたしを気遣ってくれてはいたけれど、その表情は辛さを隠しきれていなかった。


「だけど、真っ暗でも、わたしは立ち上がろうって思った」

「(⋯⋯)」

「だってずっと泣いていても蹲っていても、わたしの大切な人たちは誰も笑ってくれないから。そりゃあすぐに立ち直れはしなかったし今だって完全に立ち直れているのかって聞かれたらどう答えたらいいのか分からないけど⋯⋯、それでもわたしはもうこのわたしと過ごしていくしかないから」


過ぎ去った時間はもう二度と戻らない。

過去にはどう頑張ったって戻る事は出来ない。

失ってしまったものをいくら嘆いたところでわたしの音はもう、返ってはこない。


それならもう、付き合っていくしかないじゃんって、あの頃のわたしは自分に言い聞かせたんだ。


「わたしね、千冬のこと恨んでなんかいないよ」


冬の冷たい空気に乗って発した言葉に泣きそうだった千冬の瞳がゆっくりと見開かれていくその様子にわたしまで泣きたくなった。


――

「千冬のこと恨むはずがない。わたしが千冬のせいだなんて思うはずないじゃん」

「(⋯⋯そんなの、今更だろ)」

「今更かもしれなくても伝えたかった」

「(⋯⋯)」

「本当は、心の片隅では分かっていたのかもしれない。千冬があの事故を自分のせいだって思ってるかもしれない事に気付いていてそれを見て見ぬふりした。かき消した」


どうして急に避けるの?どうして冷たく接するの?ってその理由を探しているフリをして逃げた。

だって千冬が責任を感じて自分自身を責めている事に気付いてしまったら、わたしの全てを否定されているのだと思わずにはいられなかったから。

あの事故の後のわたしはもう、わたしではないのだと。千冬の中にいる石川六花ではないのだと言われている気がしてもう二度と、千冬が笑いかけてくれる事はないのだと突きつけられている様な気がした。

わたしの障がいが理由ならまだやり直せる。
だけど植え付けられたトラウマは簡単には克服出来ない。背負ってしまった責任を千冬が下ろす事はない。

“聴者ではないわたし”ではなく“千冬を庇って事故に遭ったわたし”を千冬が遠ざけようとしているのだとしたらもう、どうすればいいのか分からなかった。

だからわたしは千冬の苦しみや辛さや葛藤に気付かないふりをして現実から目を逸らした。

それどころか千冬が離れていったのは“聴覚障害のせいかもしれない”とまで思い込んだ。


「前みたいに戻りたかった。聴こえなくても、千冬と会話をして笑い合いたかった」


ずっと願っていた。

千冬にわたしを受け入れて欲しいって。

音のない世界にいる、わたしを。


だけど今こうして考えてみるとそれはもう願っていたのかもしれない。

だって千冬が聴覚障害を持つわたしを受け入れていなかったら、後輩から庇ってなんてくれない。

手話を覚えてなんていてくれていないし、友達にキツい言葉を向けてまであの場所からわたしを連れ出してなんてくれない。

ずっとずっとずっと、千冬は音を失ったわたしを受け入れようとしてくれていた。

千冬が受けいれられず拒絶していたのは紛れもない自分自身─────千冬自身なのかもしれない。


「あの時、千冬の体を押してよかった」

「(何言って、)」

「たとえ音が消えたとしても今目の前に千冬がいてくれる事の方が大事だから」

「(⋯⋯っ)」

「あの日わたしがああいう行動をしたのは間違いなくわたし自身で、わたしがそうしたいからしたの。たくさん泣いて、絶望して、世界から音が消えてどうしようもない孤独を感じて。

だけど千冬がここにいてくれるだけでいいって心から思える。
まだちょっと強がりも混じってるけど、音を失ったくらいなんだって、⋯⋯だいぶ強がっちゃってるけど思えるよ」


隣に座る千冬の手を取りわたしの両手で包み込む。

わたしよりも体温の低い千冬の手は冷たくて、体温の高いわたしと重なり合えばそれはちょうどよい温もりになった。