透明を編む 【完結】



「あ⋯、っとね、音楽室の前を通り掛かったらたまたま千冬の姿を見つけて⋯もう放課後だよって起こそうと思って⋯」

嘘と本当が混じった下手な言い訳に千冬は眉間に皺を刻んだまま窓から腰を離し立ち上がる。


「っど、どこ行くのっ?」

無言のまま通り過ぎようとする千冬にどうしてか分からないけど焦ってその袖を掴めば、心底嫌そうな顔をした千冬が振り返った。

「(離せよ)」

「⋯っ待ってよ」

「(六花と話してる暇ねぇんだよ)」

「なんでそんなっ⋯、そんなこと⋯」


笑ってしまう程避けられている自分が哀れで、今すぐに「どうして」って、「何で避けるの?」って悲しみをぶつけてしまいたくなる。

だけどそれが出来ないのは、千冬から明確な理由を、言葉を聞くのが怖いからだ。

だからわたしはわざとらしく明るい声を出してすぐ側にあったグランドピアノを指さしながら千冬の袖を引っ張った。


「そういえば千冬、昔はよくピアノ弾いてくれたよね⋯?」


千冬の袖を掴んだままピアノに近付くわたしを千冬は怪訝な表情をして見下ろしているけれど、手を振りほどく事はしなかった。


「あの、カノンって曲。よく弾いてくれたじゃん」


そう言いながら蓋が空いているピアノの鍵盤を人差し指でポロンと押す。

何も聞こえないけれど、こうしてピアノの前に千冬と立つと、幼い頃千冬がよくわたしにピアノの音色を聴かせてくれていた事を鮮明に思い出す。

千冬は良家の御曹司だから幼い頃から沢山の習い事をしていて、ピアノも上手だった。


「また、弾いてみて欲しい」

「(⋯⋯ピアノを?)」

「うん。弾いて欲しい」


聞こえないわたしにピアノを弾いてみせるなんて意味が分からないし必要もない事だと、きっと大多数の人が言うだろう。

もしくは意図を理解出来ず戸惑う、とか。

だけど千冬はそういう意味のない事を嫌がったりしない。
随分と傲慢に聞こえてしまうかもしれないけど、例えわたしの意図が読めなくても、必要のない事だとは思わないだろうって思った。
千冬はピアノを弾いてくれるって、そう確信があった。

ゆっくりと鍵盤の上に添えられた右手はあの頃よりもずっと大きくて、長い指が華麗に鍵盤の上を走っていく。
右手だけで、ゆっくりと刻まれていくピアノの音色を聞くことは出来ないけれど、頭の中にはカノンの曲が流れていく。

幼い頃、一生懸命わたしに聴かせてくれた、あのカノンが駆け巡る。


ピアノの鍵盤を見ながら、たまに千冬の顔を盗み見て。二人きりの音楽室で、久しぶりにわたしの中に音が流れた気がした。


そよそよと初夏の風がカーテンを揺らすオレンジ色の空間で、黄昏に照らされた千冬の横顔はどこか神秘的で、その横顔が昔から好きだったなぁ、と懐かしくなる。

こんな風に千冬がピアノを弾いてくれるのなんて本当に久しぶりで、たとえそこに会話がなかったとしても、わたしにはその音色が聴こえなかったとしても、この短い時間がとても楽しくて、永遠に続けばいいのにって思った。