草だらけで急な斜面を下りた先。
刺々と鬱陶しい草に背中を預けて,川を眺めるのが私は好きだった。
それも,これで,今日で……
最後,最期。
こんな時間にここへ来るのは初めて。
本当はずっと来てみたかったのに。
風と,私が下りてきたてっぺんに見える街灯の灯り,そして流れる水の音。
虫の動き,草木の騒ぎ声。
こんな風に楽しんでいることを,両親に怒られる心配ももうない。
目を閉じると,瞼が震える。
ほうっとはく,息も震える。
心臓はもうずっと,こっそり家を抜けるあの瞬間からずっと煩くて仕方ない。
ごめんね,2人とも。
違う,それよりももっと沢山の人達。
親族も友達も皆みんな。
だけどね,これでもね,もうずっとね,頑張ってたの,私。
楽しかった,毎日楽しかったの。
だから,きっと気付きはしなかったよね。
小さい頃は,もっと楽だった。
何にも考えなくても,生きていられた。
今より前が楽だった。
ただ,それだけなの。
誰も悪くなんかないよ。
ただね,もういっかなって思っただけなの。
楽しかったし,やりたいことはやったし。
食べたいものも食べたし,それ以上は別に簡単に諦められる。
生きてる方がめんどくさいやって,思っちゃったんだよね。
1度思ったら止められなくて,更新されていく,毎日が嫌になったの。
手放したくて,仕方なかったの。
死にたいなんて,1度だって思わなかった。
痛いのも怖いのも悲しいのも嫌い。
皆の記憶ごと消えたいと思ったことはあるけれど,やっぱりそれも違う。
ただ生きていたくないだけなの。
どちらも,手段でしかないの。
ずっとずっと踏みとどまっていた。
友達を,家族を,邪推するだろう世間を,処理をさせられる人達を。
何度も頭に過らせて,自分よりそっちを優先させて。
でも,もうだめだなぁ。
今日で終わり。
そろそろ,移動する?
大好きなこの場所を,汚したくはない。
どうせなら,どこか。
あの満月に届くくらい高いところ。
そんな所がいい。
月は,すき。
今日の満月は特に好き。
雲がかかっていたって構わないのに,やけに大きく見えるまんまるな黄色は,真っ直ぐに私を見ている。
まるで慰めるように,背中をそっと押すように。
あぁ,だいすき。
怖いよ,怖いけど。
あなたが見ていてくれるなら,待っていてくれるなら,大丈夫。
ね,あったかい。
月を見上げる後ろから,ざっと音がする。
私もゆっくり振り向いた。
大人。
それが1番まずい。
けれど,そこにいたのは1人の男子。
同い年,くらい?
家出かもしれない。
同じだと思って,話しかけられたらどうしよう。
取り敢えず,川に飛び込もうとしたら止めようと思った。
他所でやれ。
滑り落ちないように,彼はゆっくりゆっくり下りてくる。
その瞳が,しっかり私を捉えていた。
そのまま,勝手に横へ腰かける。
「やあ」
人に構うつもりはない。
さいごは1人って,決めてる。
「ぼく,今日で余命最期なんだよね」
訝しげに横を見ると,へらへらとした顔が映った。
何言ってるの,この人。
意味分かんない。
どうみても元気そうだし,もしそうならこんなところにいられるはずがない。
ってか,誰なの。
どこ高?
どんなに興味がなくても,次が無くても。
こんな風に向こうから絡まれたら,多少意識も持っていかれる。
「ぼく? ぼくは……なんだろう,妖精?」
私は彼から視線を外した。
やってられない。
「ほんとだよ? ほら見て,あの満月から下りてきて,光の粒子になって。それで次の満月には死んじゃうの。ぼくにとってはそれが今日」
きみは,変な子なんだね。
時間があったら,私はあなたを家まで送ってあげたかな。
彼は寂しそうに瞳を濡らして,私をじっと見た。
そんなホラ話も,信じてしまいそうになる。
「きみ,ここが好きなんでしょ?」
なんで知ってるんだろう。
こんな誰もいない時間に,座っていたからだろうか。
「ぼくも好き。いつもここにいたから,知ってるよ」
うそ。
私は彼なんて見たことない。
ここにはいつも,誰もいない。
「ず~っとね,考えてたの。ここに来てから,ぼくのさいごはどうしようって」
もうその話はいいよ。
他の場所にして。
もう静かにして,私をほっといて。
「心残りがひとつだけ。ねぇ,名前なんて言うの?」
私は答えなかった。
もう喋りたくなんかない。
自然以外の何者にも干渉されず,落ち着いていたい。
残念そうに彼は笑って,胸の痛んだ私は顔を背けた。
ポッケから,かさりと音がして。
私は怒りに似た感情で,反射的に振り返る。
「……きみ,死にたいの?」
私が沢山考えて書いた,遺書。
「誰も悪くない。生きたくないので,生きるのやめました」
彼は勝手に内容を読み上げる。
取り返したくて,ふざけないでと叫びたくて。
でも…私はただ膝に顔を埋めた。
泣いてしまいそうだった。
自分の綴った言葉に。
後ろめたくて,後ろめたくて。
今さらやっぱり,間違ってる気がしてきて。
たった1文読み上げる彼は,見たことがないような無表情で。
終わった後で顔を上げてみると,彼は。
唇をきゅっと結んで,心底悲しそうに涙を流していた。
どうして,とても言いたげに,真っ直ぐ前を向いている。
初めて私は何かを言おうとしたけど,やめた。
なんて言えばいいのか,私は知らなかった。
彼の頬の涙が乾いていくのをそっと眺める。
慰めるつもりで,私は彼の片手に自分のそれを重ねた。
頬にほんのり朱を挿した彼は,私の手をとって弱く繋いだ。
変なの,誰かも分からない彼と,恋人みたいに手を繋いでる。
それから,どちらも言葉を生まなかった。
どんなにどきどきしていても,彼は私を責めないし,何も言わない。
色白で,体温の低い彼の手を,私は握っていた。
そろそろと思っても,言い出せない。
返して貰った紙をポッケに感じながらも,あと少しと言い訳をしている。
隣に彼を感じて,お互いただ座っていた。
言葉も行動も,何一つない。
そろそろ,本当に終わる。
夜が,あける。
ぎゅっと,彼が私の手に力を込める。
私が彼を見ると,彼は穏やかに笑っていた。
同級生で,こんな表情の出来る人を私は知らない。
保育園児がするみたいな柔らかい手繋ぎだったのが,何かを伝えるみたいに,強く強く変わる。
それは私に伝わらなかったのか,彼は困ったように苦笑して。
私は
何? 何?
と必死に彼の顔から正解を探そうとした。
待って。
そんな言葉が頭を過る。
どうしてこんなに必死になっているんだろう。
待って。
ちゃんと考えるから。
けれど彼は,ふるふるとそれを制すように頭をふる。
私が彼のようにぎゅっと手を握ったとき。
彼はふわりと嬉しそうに笑った。
ふっ…と。
世界に溶け込むように,彼がいなくなっていく。
何を言ってるのか,何を見ているのか分からないけど。
確かに,ここから彼がいなくなろうとしていた。
一つ一つじゃ弱そうな,まばゆい光になっていく。
ふよふよと,重さの無さそうな何かになっていく。
その光の粒子は,緩い螺旋を描いて私を囲った。
全部意思を持ってるみたいに動いてる。
でも,怖くない。
優しい優しい,何かを感じる。
立ち上がって目で追うと,ある瞬間。
ふわん…っと抱き締められるたような感覚がした。
ー生きていてよ。ぼくの初恋のひと。
片足を引いて見開くと,それは粒子ごと霧散する。
まっ……て……
見開いた瞳から,雫からこぼれ落ちた。
結局,私が彼に言葉を発する事は1度も無かったと上っていく光に思う。
私の手の中に彼の手が,隣に彼の姿がない。
それを目で確認して,消えてしまった光を探して。
それが無かったとき。
私の瞳を飛び出して,ぼろぼろと涙が頬を伝った。
理由は,分からない。
何が起きたのかも分かってない。
なのに。
苦しいほどの嗚咽が,喉を震わせる。
ぁ,ぁと声が洩れた。
次から次へと流れて,どれも止まらない。
なに,なに。
少しくらい話してあげればよかった?
名前くらい,教えてあげたらよかった?
話してみたかった。
一緒にいたかった。
もう少し,ただそこにいた彼を知りたかった。
私の手を繋ぐ彼は,もういない。
ふらふらと元の位置に座り直して,明るくなった水面を見る。
やがて心臓の音が時計の針のように聞こえだして,急くような気持ちになって。
忽然と,帰らなくてはと思った。
そんなはずないのに,まだずっと先のはずなのに。
両親が,起きてしまうと思った。
ポッケから紙を出して,念のため。
文字のところにだけ水をかけて,私はぐしゃぐしゃと丸めた後ポッケに収め直す。
ほら,私。
早く帰らなくちゃ。
ぐしぐしと目を擦る。
目はきっと赤い。
でも直ぐに治ってしまう。
だから,腫れないように。
私はそれだけで,最後に瞬きをした。
昨日はもう,終わり。
ここは私のたからもの。
きみをずっと,わすれない。
ばいばい,名もない光の男の子。