四月中旬、日差しはだんだんと暖かくなり上着のいらない季節がくる。

 私は二十九歳になった。

 自然豊かな美しい街並みの中を進むと、真っ白な外壁に彫られた『なぎさ歯科クリニック』の文字が見えてくる。

 高級住宅街が立ち並ぶ都心の一角に構え、まるでカフェのような風貌の職場。

 自動ドアを開けたら消毒液の独特な匂いがする。白を基調としたヨーロピアン風の院内はインテリアひとつひとつにこだわっていた。

 いつも通り午前八時十五分にタイムカードを打刻した。

 二階へ続く階段を上がり、ロッカールームで紺色のスクラブに着替えた。ざっくりと後ろで一本に髪を束ねれば今日も一日が始まる。


 実家は小さな町の歯科医院だった。

 その影響もあってか歯科衛生士になる道を選んだ私は、三年制の専門学校を卒業するタイミングで父から紹介されたこの医院に勤め始めて八年が経つ。

 今では十四名ほどになったスタッフの中で気づけば古株になっていた。

 午前の診療時間を終えてお昼休憩に入った頃、杏奈からメッセージが届いた。


【どうしよう、出版社行かなきゃ】


 彼女はフリーランスの翻訳家として働いている。

 食べ始めたばかりのお弁当にふたをして、お茶でご飯を流し込む。

 慌てて二階へ駆けあがり、開けっ放しになっている事務室の扉の前で呼吸を整えた。