門出のあなたに




翌日の朝。




小春は昨日、数学の問題集を忘れて帰ったことに気がついて、それでいつもより早くに登校して来ていた。




教室の扉を開けると、まだそこには誰も居なくて、ひんやりとした空気だけが横たわっている。





角度の低い朝日が、教室の奥にまで届いている。





その日向にある自分の席に着こうとして、小春はほっとした。





問題集が、ちゃんと残っていた。






今日のテストはこの問題集から出題されるから、せめて授業になるまでにこの問題集に目を通しておきたかった。






席に着いて、机の横に鞄を描けると、問題集を開く。




……すると、そこには、印刷された幾つもの設問の横に、幾つもメモ書きが添えられていた。





設問の解き方と、考え方。






小春の知っている字ではなかったけど、右に走るようなクセのある字は、とても丁寧に設問について説明してあって、問題集を読むだけでは分からなかった小春にも、設問の意図や解き方が分かってくる。





果たして誰がこんなことを、と考えて、小春の脳裏には一人の人物しか思い浮かばなかった。






昨日、尾上とこの問題集を残して、教室を飛び出た。






そんな意図はまるきりなかったけど、多分、尾上がこのメモを書き残したのだろう。






……昨日の約束を、果たそうとしたのだろうか。






今は受験生にとって、時間がとても大事な時期だと思うのに。







少し緩むような気持ちになったのを、はっと引き締める。






……だって、あんなことする人なんだから。






だから、もう関わり合いにならない方が、身の安全だ。






うん、そうだ。






……そう、だと思う……。






先刻引き締めたはずの気持ちが、どこかで緩むのを感じる。





おかしい。




こんなはずじゃあ、ないのに。





……でも。






南校舎に行った時に、絡まれた先輩から助けてくれた。





深い瞳の色で、小春の具合を窺ってくれて。





あんな、ぴりぴりした空気の中に居るはずの人なのに、こんな風に問題集に丁寧にメモなんか残していって。







それに、泣き散らかした自分に、やさしい声で告白してくれた。





大事にするって、そんな風に言ってくれた。





どれも、あんな風に強引にキスしてきた人と同じ人なんて思えないくらい、尾上のやさしさが詰まっている。





……なんだろう。




これは、ほだされてるんだろうか。






そういえば、笠寺や早紀と一緒に四人で居たときも、本当にからかうような目つきはしていなかったと思う。






尾上の眼はいつも小春のことを真っ直ぐに見て、だから小春が尾上のことを見返せないのだ。






……からかわれてるんじゃ、ないんだ……。





……そうだよね。私のこと、好きだって、言ってたもんね……。





どこが、良かったんだろう……。






自慢じゃないけど、自分は結構ドジだし、度胸もないから早紀みたいに笠寺に告白とかも出来ないと思ったし、どっちかって言うと太りやすいからスタイルがいいとかでもないし。






とてもあんな、綺麗な顔の、頭のいい先輩が好いてくれるような要素がないと思うんだけど……。






問題集に目を落とす。





一問ずつ丁寧に説明書きされたメモは、本当に分かりやすくて困ってしまう。





だって、絶対もう会わないほうが身の安全を保てる相手のはずなのに、こんなことされたら、やっぱり気になってしまうじゃないか。







思えば最初から、尾上は小春の気になるようなことばかりしてきている。






キーホルダーをわざわざ突っ返したり、それを渡そうとしたら、瞳を悔しそうに歪めてみたり。





自分のことを忘れてくれなんて言っておいて、突然キスしてきたり、受験勉強で大変な時期に、小春のために時間を割いてくれたり。






「…………」






……初めて、だったのに。






ファーストキスなんて、人生で一番覚えていることじゃないか。






それを奪われて、忘れられるわけがない。






……意図してやったんだろうか。





……嫌われても、一生忘れられないように?






嫌われるかもしれないことを、どうして出来たんだろう。





自信があったわけでは、ないだろうに。






……良く、分からない。






例えば、早紀に話したことだけど、告白しなかったら始まらないんだから、せめて気持ちを伝えて、相手と向き合って欲しいと思う。





人を好きという気持ちはとてもきれいなものだから、その気持ちを向けられたら悪くは思わないと思うのだ。






そんな大事な気持ちを殺して欲しくないと思う。





そう言って同じ想いの早紀を励ましてやった。




その結果が実を結んで、親友として良かったと思っている。






一方、尾上のやり方は極端だ。






嫌われてもいいから、なんて。






……やっぱり、良く分からない。





小春だったら、相手と向き合うにしても、やっぱり良い思い出になりたいと思うから。






……だから、笠寺には告白できなかったのだけど。






(なんで……、なのかな……)






頭から、尾上のことが抜けない。








小春は問題集を見つめたまま、朝のしんとした教室の中で思案に耽っていた。