――誰かが、私の名前を呼んでいる。

「さく、大丈夫か? さく……?」

ああ、ほら、もっと女らしい、情緒的な響きとか、かわいらしさのある名前がよかったなぁ。「さく」なんて、あまり魅力的じゃない。

でも私は自ら地味地味なことを好むから、その点では華やかな名前よりも私にはお似合いなのかもしれないな。

おばあちゃんになっても違和感はないから、無難なことは無難なのかな。


なんて、考えていたら……

「朔。そろそろ目を覚ませ。説明するから」


はっ。

この声!


ぱっと目を開けると、私を覗き込んでいる蒼の疲れた顔が見えた。急いで飛び起きる。ぐらっと体がバランスを崩す。とっさに、蒼が慌てて右手で私が落ちないように抑えてくれた。


白い天井。

白い壁。

消毒薬のにおい。

そこは黒いベンチの上。蒼は横たわっていた私の枕元に座っている。

どうやら、病院の通路の一番奥のベンチ椅子の上に寝ていたみたい。


「そ、う……? 大丈夫なの⁈」

呆然とする私に、蒼は苦笑しながら左手を揚げて見せた。手のひらから手首までがぐるぐると包帯で巻かれている。

「全治1か月。なんとうまい具合に、ナイフの先が手のひらに突き刺さったんだ。骨とか筋とか神経とか無事なまま!」

「えっ⁈」

「刃が薄くて鋭利で幅が狭い特殊なベジタブルナイフってやつで、しかも勢いがすごかったから、骨と骨の間にちょうどぐっさり刺さったらしい。血管は破れたけど。刺さったまま病院まで搬送されてさ、まじグロかった」

「そ、そ、そんな、他人事(ひとごと)みたいにっ」

「いや、結構痛かったよ。ほら。ここ、中指と人差し指の間の、骨のないところ。麻酔して3センチくらい縫われたんだ。抜いた時の出血が多かったし、貧血起こすかと思ったよ。今夜は肉でも食うか」

「な……な、なに、よ……」

胃の下あたりから、訳の分からないいら立ちが込み上げてくる。

「なに、肉とかのんきなこと言って。知らせを聞いて、私が、どれだけびっくりしたと……っ」

蒼は私の頭を自分の肩にそっと押し付けて、子供を安心させるみたいに私の背を優しく叩いた。

「心配かけてごめんな。あまりにも突然だったから、とっさに手を出すしかなかったんだよ。伊織さんも驚いて固まってて、あのひと、反射神経鈍いし」

「ほかに、は? ケガ……」

「んー。これだけ。刃物は俺の手に刺さってほかに凶器はなかったみたいだったから、地面にねじ倒して背中を足で抑えてたら、警備員が来ておわり。伊織さんも突き飛ばされて手首ねん挫したみたいだったな。まぁ、大丈夫だろう」

私は安堵のため息を漏らした。

「とりあえず抗生剤と痛み止め処方された。みんな先に帰ったよ。朔、運転できるか?」

「うん、大丈夫。できる。帰ろう」




伊織さんを襲った女は、被告人が殺害した夫の愛人だった。

なぜ裁判長を襲ったのかについては、傍聴していて顔を覚えていたから。事件の担当弁護士は、被告が浮気されて精神が衰弱していったための心神耗弱による減刑を訴えていた。被告の罪が軽くなるのは我慢がならないと、女は誰でもいいから裁判関係者を狙っていたらしい。


今夜は蒼の家に泊まると暉に連絡を入れる。明日は来なくてもいいと融さんに言われたらしく、蒼は喜んでいたけど……私はなんだかとても疲れてしまった。ご飯を作る気力もなく、薬味を刻んだだけのそうめんになってしまった。

肉が食いたかったのに、とぶつぶつ文句を言いつつも、蒼は完食していた。着替えを手伝って、シャワーのために左手にエンボス手袋の手首部分をゴムで留めてあげている。

麻酔が切れたら今夜はひどく痛むかもしれないと、強力な痛み止めをもらったので一応、ペットボトルの水と一緒に枕元に置く。

「左手でよかったね。右手だともっと不自由だったと思うよ」

「その時はあんたが面倒見てくれれば問題なし」

「今だって見てるじゃない! 結局はどちらにしても同じでしょ」

でも。

私はソファに座る蒼に抱きついた。

「ほんとに、無事でよかった」

「銃で撃たれるとか、襲ってきたのが大男じゃなくて運がよかったよ」

「お母さんを、助けたのね」

「うん、そのうちお礼にA5ランクの熟成肉をクール便で送ってくれるだろうから楽しみにしておこうな!」

「またそんなことばかり言って。さっき病院で見たけど……暉は、蒼のお父さんともお母さんとも親しそうだった」

「高校の頃から知ってるからな。アニキは愛想がないから伊織さんが会おうって言っても会おうとしなかったけど、俺はよく暉を連れて会っておごってもらってたから。まぁ、オヤジのほうも同じだな。高校の頃って、やたら腹が減るから」

「今でも、ふたりとも仲良しなのね」

「ああ、オヤジと伊織さん? 円満離婚後のほうが、結婚してた時より仲良しだな。親父が再婚してからも。あの人たちも、ほんとによくわからない」

どうでもいいけど、と蒼は付け足した。

「蒼はお母さん似なんだね」

「ああ、よく言われる。確かに、オヤジには似てないよな。瑞貴(みずき)は完全にコピーみたいにオヤジにそっくりだけど」

「みずき?」

「あ、アニキな」

「ああー」

「外見はオヤジと瓜二つだけど、性格はクソまじめであんまり冗談とか通じない。でも小さい頃は、俺の面倒をよく見てくれた」

「渋谷さんちは、みんな個性的ね」

「山野井さんちもそうだと思うよ。暉があんなんなのは、100%教授の遺伝だし」

「まさに正解。うちのお父さんのこと、知ってるの?」

「教授から俺と暉は囲碁とチェスを教えてもらったんだ」

「そうなの? 全然知らなかった」

「山野井さんちで謎の生物は、長女の朔だけだったんだよ」

「あはは。謎の生物だったの? 私」

「うん、暉が過保護に隠してた, 未確認生物(クリプティッド)

「ひどい言いようね。明日の朝ご飯は、私の分だけ作るから」

「けが人にそんな冷たいこと言うのか? 俺の分の朝食がないんなら、あんたを食うまでた」

「ばかね。もう寝て。抗生剤ちゃんと飲んで。痛み止めも忘れずにね。熱が出るかもしれないから、苦しかったらすぐに教えてよ?」

私はソファから起き上がり、蒼の右腕をぴしゃりと叩いた。

蒼はその手を差し出す。

「連れてって」

今日は甘えん坊ね。

私は蒼の右手をぐいと全身の力を込めて引っ張り上げて蒼を立たせる。そしてその手を自分の右肩に担いで寝室までぐいぐいと引っ張っていき、背負い投げのようにベッドに寝かせた。


「おやすみなさい。ずっと、隣にいるからね」

蒼の額にキスを落とす。

痛み止めの薬のせいか、眠たげだった蒼は瞼を閉じた。

私は口角をあげる。


良かった。

蒼が無事で。

本当に良かった。








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