小さなころから、おとぎ話にはあまり共感できなかった。


王子様と結婚できるのは、どこかの国のお姫様や公女様。貴賤婚はどちらか一方が譲歩しないと成り立たない。愛のあるうちはそれでも十分幸せだろう。困難に打ち勝つ愛に酔いしれることができるから。

でも、愛が冷めたらどうなるの?

相手のために自分の何かを諦めるとしたら、いつか自分にそうさせた相手を恨むかもしれない。愛だったものが無関心を通り越して憎しみになれば、おとぎ話は崩壊してしまう。

だからそうならないためにも、王子様とは初めから結ばれないと思っておくのがいい。

愛だけでは、幸せになれない。

幼いながらにそんなことを思ったのは、私たちを捨てて出て行った母親の影響かもしれない。




バーベキューのあとは勤務最終日の夜みたいにいろいろな思い出話をして、家まで送ってもらった。

途中雨が降ってきて、それは帰りつくまでさらさらと降り続いた。出たときと同じ、カフェ側の門の前で降ろしてもらう。きっと専務は、そこがうちの入口だと思っているのかもしれない。

「ありがとうございました。お気をつけてお戻りください」

ドアを開けて、私はお辞儀する。

「こちらこそありがとう。それでは、また」

「はい、また」

また、いつかはわからないけど。

私と専務は微笑みあう。

遠ざかるテールランプが見えなくなるまで見送る。


――さようなら。お幸せに。


カフェが閉店している間は、門が閉じられている。私は脇戸のカギを開けてそこをくぐり、再び施錠して庭を横切り母屋に向かう。

太陽光蓄光ライトが、暗い庭の小道をぼんやりと照らし出している。

「朔」

はっ、と顔を上げる。

飛び石10個くらい先に、黒のTシャツにジーンズ、白いスニーカーの蒼が佇んでいる。

「ん?」

私は首をかしげる。

蒼は飛び石1個のところまで歩いてくる。

「傘させよ。風邪ひくぞ」

私はふっと笑みを漏らす。

「自分こそ、傘さしなよ」

「遅かったな。もう10時過ぎだ」

「そうかな? ちょっと、牧場まで行ってたから」

「は? 牧場? 何のために」

「ひみつ」

「うざっ!」

蒼がムッとする。私は笑みを飲み込み、飛び石ひとつぶん前に出て蒼を見上げる。

「なんで庭にいるの?」

「ひみつ」

「ウザいよ!」

私の口調をまねした蒼の腕を叩く。

「やられたらわかると思うけど、ウザいだろう?」

蒼はどや顔でふんと鼻で笑う。

「あ、そうだ。防犯カメラの白いワンピースの女の謎は解けたよ。あれは……専務のお見合い相手だった。今日、人相合わせしてわかった」

ふうん、と小さく呟き、蒼は両手でそっと私の頬に触れる。

「なによ」

「濡れてるよ。冷たいし」

「蒼だって。どうして傘さしてないの」

「……朔。ちゃんと命令3は守ったのか?」


『命令3。あの男に惚れるなよ』


私は苦笑する。

「なんで今それなのよ……」

「もう元上司と出かけるなよ?」

「なにそれ、やきもち?」

「そうだよ」

「えっ?」

皮肉だったのに。すんなり肯定? 

「また私をからかって、反応を見て笑う気でしょ」

「そんな余裕はない」

「はい?」

「命令4」

「えっ、じゃんけんで負けて、言うこと聞くのは三つまでだったじゃない!」

「ペナルティがふたつある。命令ひとつぶんに換算される」

「なんなのその、俺様ルールは?」

「これからもペナルティが増えて、言うこと聞く回数も比例していくからな?」

「そんな、とってつけたようなあと出しじゃんけん的な……」

あまりの横暴さに、思わず苦笑してしまう。


蒼は目を閉じてふう、と大きく息を吐く。それから、目を開いて私の目を見る。

久しぶりに目が合った。ああ、日曜日の夜、庭のアジサイを一緒に見たときに、相当酔っぱらって寝落ちする寸前にも見たような気がする。いつも余裕で私をからかってばかりの蒼の、何かに追い詰められてどうしようもなくなった時のような表情。

「あんたの男は、一生俺だけにすること」

さらさらと小雨が降る夜。温かいのは、蒼の両手が触れている両頬だけ。

「……」

私はきっと、すごく間抜けな顔をしていると思う。

目は真ん丸だし、口もぽかんと開いているし。

「俺の女も、一生あんただけにする」

真っ白になった頭の中に、月曜の朝の蒼の書置きの一言が浮かんでくる。


『ちゃんと、話し合おう』


これは、蒼なりの酔った私に白状させたことへの答え?

「あんたが元上司と出かけたって暉から聞いて、正直、気が気じゃなかった。このまま朝まで帰ってこなかったらと思うと、何も手に着かなくて」

はっ、と私は息をのむ。

「まさか、それで私の帰りを持って、庭をうろついてたの? 何時に帰るのかメッセージ送ってくればよかったのに。風邪ひいたらどうするの?」

蒼は私の両頬をぐいっと寄せて、私を変顔にしてすねた子供のように口をへの字に曲げた。

「それで明日まで既読にならなかったら、シャレにならないだろう?」

なんなの、そのちっぽけなプライドは。

私は蒼の両手首に手をかけて変顔を阻止しながら笑ってしまう。

「ばかじゃないの? そんなこと、あるわけないでしょ。半年前にも酔っぱらった時に話したよね? 私は王子様のただの侍従だったの。侍従をやめたからって、お姫様にはならないしね」

「そう思ってるのは、あんただけ。だからきっとあの男のお見合い相手も、あんたのこと脅威に感じて偵察に来たんだよ」

「私がそう思っていれば、それがすべてでしょ? どうしちゃったの? いつも余裕でひとをからかってばかりのくせに」

身を屈めた蒼がこつん、と自分の額を私の額に当てる。

「だからそんな余裕ないって言ってるだろ」


ああ、なんか、まいったな。


嬉しさで胸が詰まって呼吸困難で、死んじゃいそう。

心がぎゅうぎゅうに満たされてる。

「朔、命令4。わかったか⁈」

私はつかんでいた蒼の両手首から手を放し、代わりに両耳の付け根に指をかけて、下に引き寄せてバードキスをした。

ここが雨降る中庭ではなかったら、抱き着いてたくさんキスして押し倒していたかもしれない。

誰かをこんなにどうにかしたいと思うようになるなんて、自分でも訳が分からない。

「ん。わかった。わかったから……家に入ろ。風邪ひいちゃうよ」

私は蒼の手を引いて飛び石の上を歩き出す。蒼はおとなしくついてくる。


これって、話し合ったことになるかな?


『命令4。あんたの男は、一生俺だけにすること』


傲慢不遜な言い方だけど、他者に無関心な蒼にとっては、すごい進歩なのかもしれない。


『俺の女も、一生あんただけにする』


これって、私のもやっとがやっと解決したってことだよね? 


『なにそれ、やきもち?』

『そうだよ』


やきもち。

私が専務と出かけて蒼がやきもちを焼いた。

私が帰るまできっと何度も家の前とカフェの前、両方の入り口を行ったり来たりしていたんだろうな……


ふふ。


私の男は、なんてかわいいの?


「蒼。じゃんけんで勝ってないけど、私から命令1があるよ」

玄関の軒先で立ち止まり、蒼と向かい合う。

「なに? 一応、聞いてやるよ」


さらり。雨に湿った私の髪をひと撫でして、蒼は首をかしげた。

「なんでも暉に言うの禁止」

蒼はふっと口元を緩める。

「わかった」


玄関の引き戸を開ける。


ん?


「……」


見慣れないものを目にして、私は首をかしげた。

「ああ、それね。そうなんだ、朔、ちょっと居間に行かないと」

蒼が苦笑する。


うん……?