土曜日の午前8時05分。

すっかり寝坊してしまった。

というか、あんまり眠れなかった……



――昨夜。

足腰の力が抜けて動けなくなってしまった私を、蒼は抱き上げて2階の私の部屋まで運んでくれた。

抱き上げた、といっても肩に担ぎあげたという感じだったけど。民家の階段だからね、安全性を考慮したみたい。

彼は荷物のような私をそっとベッドに横たえて、かけ布団をかけると頭を撫でて言った。

「もう寝ろ。俺はそろそろあいつらのところに戻らないと」

そうして照明を消して部屋を出て行くとき、私を振り返って不敵な笑みを浮かべながら、勝ち誇ったように付け加えた。

「これから時間はいくらでもあるからな」


……捕食動物に追い詰められた草食動物の絶望感が、なんとなく想像できたように思った。


結局、あまりの衝撃の大きさに朝方まで眠れずに右に左にごろごろと、長い長ーい夜を過ごしたのだ。


不可解で不思議で、なんとも複雑な気分。

まったく、嫌な感じはしないけど……

一方では得体のしれない不安でいっぱいだった。

名前も知らない、二度とは会わない(と思った)ひと。

だから、結構、酔いに任せていろいろなことを話してしまっていた。

そうなのだ。

人間関係以外にも、情熱とか、欲望とかも……

蒼は誰にも言えないような私の、かなりいろいろなことを知っている!

(のたうち回りたいほど、恥ずかしい……)



――私は彼のことを、まだほとんど何も知らないのに。


空が明るくなりかけるまで起きていた記憶はある。限界を超えて眠気に負けてうとうとして、たぶん、2時間くらいは寝ただろうか。

スマホを見ると8時を回っていて、諦めて起きることにした。


私の部屋は2階にある。部屋続きには専用のバスルームもある。

ネロリの精油を垂らした湯船に30分くらいつかれば、気持ちが落ち着いてくる。チュニックにレギンスの動きやすい恰好で降りて行き、朝飯を作り始める。

昨夜、キッチンは衝撃の舞台と化していた。

でも今朝は、いつもの朝のいつもの静かな日常だ。

紅しょうがを刻んで入れただし巻き玉子を焼きながら、ふう、とため息をつく。

「これから時間はたくさんある」って、どういう意味だろう?

もう海外には、当分行かないってことかな?



「おはよう! いい匂いー」

9時10分、暉が元気いっぱいにキッチンに現れる。その後ろから暉のTシャツとスウェット姿のよれよれのヒロトさんと、黒ぶちメガネを外して涼やかに平然とした蒼。

昨夜はあんなに酒臭かったけど、誰も二日酔いはしていないみたいだ。

「暉! こんなのが毎日食べられるなんて……お前はなんてラッキーなんだ!」

食卓に並んだ朝食を見て、ヒロトさんが感嘆する。そんな、たいしたものでもない。時間もなかったし、冷蔵庫にあるものの間に合わせだ。

だし巻き玉子に特製たれ漬け鮭を焼いたもの、ニンジンのおひたしの胡麻和えと豆腐と小松菜の味噌汁。

「うちには母親がいないからな。小さいころから朔メシが俺には家庭の味なんだ」

はは、と笑う暉の肩を蒼がぽんぽんと叩く。

「母親がいても料理するとは限らない。うちの母親は米も炊けなかった」

炊き立てのご飯をよそいながら、私は首をかしげる。

「炊けな、かった?」

過去形?

蒼はふと口の端を上げた。

「いや、生きてるよ。仕事の利害上離婚はしなかったけど、俺が10歳になる前くらいから家にはいなかった。ついに2,3年前に離婚したけど」

あ、なんか、ひとつ新事実。

「はーあぁぁぁ、酒漬けの体に染み渡る! うちの嫁にもこんなの作ってほしい……」

ヒロトさんが切なげに言う。暉はくすくすと笑って教えてくれる。

「こいつの嫁は5コ下のバリバリのITエンジニアで、料理は興味がないからって全くしないらしいよ。あ、こいつは高校の化学教師で、嫁は教育実習の時のもと教え子なんだ」

「そ、それはよろしいことで」

私は乾いた作り笑いを浮かべる。暉は顎で蒼を示す。

「あいつは昨日、留学先から帰国したばっかりなんだよ。親の事務所で働き始めるまで、ウチの手伝いをしてくれるってさ」

「ジムショ?」

本人はもくもくと食べることに集中している。代わりに暉が説明する。

「法律事務所。こんな生意気そうでチャラい顔してるけど、弁護士なんだよ」

あ、どうりで、話を聞きだすのがうまいはずだ……新事実、ふたつめ。

「顔は関係ないだろ」

ヒロトさんが苦笑する。そしてそれを暉がふんと鼻で笑う。

「お前もチャラい化学教師だしな」

「なんだよ。そういうお前は存在自体がチャラいじゃないか」

ぎゃーぎゃーと言い合いを始めるふたりに関係なく、蒼は食事を続ける。止めるべきか、放っておくべきか。私がそわそわとしていると、それに気づいた蒼が言う。

「放置でOK。あいつら、基本的に中身はずっと8歳くらいだから」

はは。確かに小学生レベル。多分、高校の時からこんな感じなんだろう。


「暉、屋根部屋の事務所に置くデスクとかPC買いに行きたいんだけど」

後片付けをしながら言うと、スマホをチェックした暉はうーん、と首を横に振る。

「今日は税理士と約束があるんだ。明日も提携会社とビデオ会議があるしなぁ。あ、蒼と行ってくればいいよ。蒼、朔を頼んだ」

「えっ?」

「じゃあ、ついでに俺の新居の家具も見てくるよ」

動揺する私の後ろで、ヒロトさんが洗った食器を乾燥機に入れながら蒼が平然と言う。

「おう、よろしく。じゃあお前ら出るときに俺とヒロを駅で降ろして行って」


(……)

なんか、なんか、なぁ。


気まずいと言えば気まずいけど、考え方によっては、ふたりきりのほうが話しやすいかな。


なんだかまたいきなり、変なことになってきた。