川辺には淡い桜色LEDの和紙のランタンが等間隔に電灯から電灯に吊り下げられている。

テイクアウトのコーヒーをもって、夜桜の下をそぞろ歩く。

行き交う人たちは写真を撮ったり七分咲きの桜に見とれたり、みんな楽しそう。


「明日は引っ越しなんです。といっても、ほとんど荷物はもう送ってしまっていて、電機や水道の契約解除と不動産屋へのカギの返却くらいなんですけど」

「あなたが『また当分はこのままよろしくお願いいたします』と言った時には、まさかこんなすぐにいなくなってしまうとは思いませんでした」

「はは。すみません。ブックカフェに目がくらんで……」

「いいんですよ。でも何か違うと思ったら、いつでも戻ってきてくださって結構ですよ」

「まさか、そんなわけにはいきませんよ」

専務を見上げて笑っていたら、写真を撮ることに夢中な人が急に私を横から押した。あっ、と思った時には突き飛ばされていた。

「大丈夫ですか?」

立ち止まって右手でコーヒーを持ったまま、専務は背中から私を抱きとめてくれた。左手が、私を右肩を包む。

「あ、す、すみません」

私のコーヒーが専務のスーツにかからなかったことにほっとする。肩にかけていたバッグが肘辺りまで落ちてくる。なんともバランスが取りづらくて、支えてもらって立っている状態になっている。

頭の上で、専務がくすりと笑う。

「周りをよく見たほうがいいですね。酔っぱらいとか、撮影や花に夢中な人とか、たくさんいるので」

「そ、そうですね……はは。あの……」

な、なんか……後ろから、抱きしめられてるみたいな体勢のまま、まだ腕は解かれない。

左手で専務の左腕をぽんぽんと軽く叩くと、やっと気づいたらしくはっと息をのみ、専務は私を解放する。

「あ、失礼……」

「いえ、支えてくださって、ありがとうございます」

微かなグリーンノートがふわりと香って、意志とは別に心臓がどきんと跳ね上がる。

「あなたはそそっかしいところがあるから、いろいろなところでよく何かに躓いたり、脚をひねっていましたね」

専務が思い出し笑いをする。私は恥ずかしさでうつむく。

「そうはおっしゃいますが、こけたのは、数える程度だったと思いますよ?」

「そうでしたか? 確か、就任した初日も、何もないところで転びかけましたよね?」

「そんなこと、覚えていらっしゃらなくても……」

専務はくすくすと笑う。

「あの日は、すごく緊張していたので……先輩たちに失敗しないよう釘を刺されていたし、初対面ということもあってガチガチでしたから」

「ああ……」

専務の笑いがふと消える。

「あの日は、初対面ではなかったですよ……」

「えっ?」

私は専務を見上げる。どう考えても初対面だったと思う。目が合う。きれいな調った顔が今はにこりともしないので、少しだけ冷たく見える。

神妙な、何を考えているのかわからない表情。一瞬、息をするのを忘れて見とれてしまう。

口の端が少しだけ上がる。

「もっと前に、会ったことがありました」

「ええ? いつです?」

「……秘密です。知りたければ、思い出してみてください」

専務はふっと笑む。夜桜の下、その表情がなんだかとても妖艶に見えて、私はまたドキリとする。

ずっと近くにいて、ずいぶん見慣れたはずなのに。

何も言えずに口をパクパクと動かしていると、いつもの優し気な笑顔で首をかしげ、歩くことを促される。

「せめて、どれくらい前とか……」

「ヒントはナシです」

「そんな……」


やがて桜並木が途絶えて、人がまばらになる。楽しくてきれいな夢が、途中で終わってしまったようなあっけない感じ。

専務は流しのタクシーを捕まえて私を乗せる。私の住所を番地名まで告げて運転手にお金を渡す。

「そんな、多すぎます!」

窓を開けて私が非難すると、専務はいたずらっ子のように笑んだ。

「おつりはまた今度返してください。では、お気をつけて」

夜の街の中を滑り出すように、タクシーが走り出す。


ずるい。いろいろと、ずるい。

そもそも、私がごちそうしたかったのに!


それにしても、2年半前のあの緊張の噛み噛み対面が、初対面ではない? どうして今まで黙っていて、どうして今日、そんなことを言い出すんだろう? 

2年半も、家族よりも多くの時間を一緒に過ごしてきたのに、結局私は、専務のことをよくわかっていなかったのかもしれない。


勤務最終日、もう秘書じゃない。

それなのに。それなのに。

一緒に働き始める前に、会ったことがあった?

信じられない。


でも、そんなことで専務が嘘を言うわけはないし……


う―――ん……



家について一息ついて、メイクを落としているとき。

電話が鳴った。


「よぉ、お疲れ! 仕事今日で終わりだったんだよな?」

(あき)の明るい声。夜なのに早朝のようにさわやかにテンションが高い。

「うん、さっき、上司と最後の晩餐して帰ってきた」

「上司って、前に写真に一緒に写ってたあのめっちゃイケメンでしょ? ふたりだけで?」

「そんなの、珍しいことじゃないよ。上司だもん。私なんて対象外でしょ」

「うわ。鈍い女って、どうしようもないな。我がいも(・・)ながら、ちょっと引くわ」

「変なこと言わないで。ケンカ売るために電話してきたの?」

「違うにきまってる。そんなかまってちゃんじゃないぜ。明日な、残りの荷物、布団とか。父さんの車借りて取りに行くよ。ついでに一緒に帰って来ような」

「ありがとう。じゃ、10時ごろ来て。不動産屋回って、お昼食べて帰ろう」

「OK。じゃ、明日な!」


電話を切る。

ふう、と大きくゆっくりと息を吐く。

仕事を、辞めた。

大学卒業後からずっと続けていた仕事を。

私の人生の第2章が始まるんだ。

期待と不安と、期待。

いいことあるといいな。

ひとり暮らし、最後の夜。

私はお風呂場へ向かった。






✦・✦ What’s your choice? ✦・✦
  前に会ったことがあった?
 思い出せない! あなたならどう質問する?

A  朔のようにあまりつっこめない

B  答えてくれるまで訊く

C  誘導尋問を試みる

D  訊かないで根性で思い出す


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