隣で、混み合った人で見えなくなったごみ箱を見つめつつ、(から)になった焼きそばのパックを弄びながら、稲葉が「チョコバナナってさ」といった。右斜め前方にその屋台がある。「バナナにチョコをかけるじゃんか」

 「なに、急に」

 「チョコにバナナをかけたらどうなるんだろうな」

 「なんて?」

 稲葉は「お、ちょっと()いた」といって、小さくなりながら向かい側に渡っていき、顔の前で縦に手を振りながらごみ箱にパックを入れて、また同じように小さくなりながら戻ってきた。腰に右手をあてる。

 「さて、花車葉月くんよ」

 「なんだよ」

 「ここにはこれだけの人がいるわけだ」

 「ああ、ここにこれだけの人がいるな」

 「つまりだね、花車葉月くん、きみの思い人もこの群衆に紛れているやもしれぬのだよ」

 「じゃあおまえは邪魔だよ」

 「そんな切ないこといってくれるな。わかるかい、きみ、僕はなによりもね、きみの幸せを望んでいるんだよ」

 「どういうキャラクターだよ、それ」

 「花車の口調をまねしてみた」

 「まねしてみるな。そんな喋り方じゃねえだろ」

 「おまえにはどこか古いにおいがする」

 「古書のにおいなら嫌いじゃない」

 「あれ、たまにカップ焼きそばみたいなにおいしねえ?」

 「どんな古書持ってんだよ」

 「カップ焼きそば食いながら読まれてた本だろうよ」

 俺は大げさにため息をついた。「あのなあ、おまえ」

 「なに」

 「食事してたらページがめくれないだろが」と声を高くすると、「うるせえなその都度お箸置けばいいだろが」と同じように返ってきた。

 「さ、いくぞ」とどこかへ向かう稲葉にくっついて、「どこに」と尋ねる。

 「そりゃ、おまえの思い人を探しに」

 「いねえよ、俺に思い人は。諦めろ」

 稲葉が突然足を止め、俺も慌てて立ち止まった。稲葉は気持ち高いところから大げさに見おろしてきた。

 「あのなあ花車くん。俺にはわかるんだよ」

 「思いあがっちゃいけない」

 「おまえに惚れている女がいる」

 「急にそういうようになったけど、なんのつもりだ」

 稲葉は大きく息をついた。「まったく、こんな鈍感な奴のなにがいいのかねえ。寺町はおまえに惚れてる」

 「だからなんでそう思う」

 「俺は基本、田崎と戦うことにしか興味がない。それは嘘じゃないけど、一個だけ例外がある。かわいい女子には興味がある」

 「その対象が寺町だと?」

 「かなりかわいいじゃんか。ちなみに俺は面食いだ」

 「見えるところにしか意識を向けないと後悔するぞ」

 「経験者が語ってるのか?」

 俺は黙って肩をすくめた。

 稲葉は短く愉快そうに笑った。

 「なるほどね、そのせいで誰かに負けたわけだ? ふうん、肝に銘じておくよ。経験者の言葉は重みが違うからな」

 「さあ、俺を見あげろ。ラケットを握っていると思って」

 「あれ、そのときも俺はおまえを見あげた記憶はないぞ」

 「認めたくないだけだな」と笑い返すと、「おまえは現実が見えてないだけだ」と同じように返ってきた。それには卓球に限ったことではないといった調子が含まれていた。