魔王討伐を目指す勇者パーティは、腕試しにダンジョンの深層まで来ていた――――。

「分かれ道は右です。その先アンデッドが出ます。一応聖水を配りますね」

 荷物持ちの少年ベンは、そう言いながら勇者たちに聖水の小瓶を配っていく。

 本来荷物持ちが地図を読んだりする必要はないのだが、せっかく得た勇者パーティの仕事を実績にしたいベンは必死である。

「おい、アレよこせ!」

 黄金色に輝く派手なプレートアーマーに身を包んだ勇者は、金髪をファサッとなびかせるとベンに手を差し出した。

「え? ア、アレって……なんでしょうか?」

「アレって言ったらアレ、目薬だろ! すぐに出せ!」

「えっ!? 荷物には入れてませんよ。出発前に持ち物は確認したじゃないですか」

 ベンは泣きそうな顔で答える。

「カ――――ッ! 使えんなぁ!」

 勇者は不満そうにバシッとベンの頭をはたいた。

 『使えない』と言われても自分はただの荷物持ち。運ぶ物の選定は勇者たちの仕事である。とはいえしがない荷物持ちの少年に発言権などない。ベンは叩かれたところをさすり、大きく息をついた。

 ベンは東京のブラック企業で働いていた会社員。生真面目な性格を利用され、毎晩サービス残業の連続で過労死してしまい、女神に異世界転生させてもらっていたのだ。しかし、気が付いたらスラム街に暮らす少年になっており、異世界転生ものの作品にありがちな(きら)びやかな異世界生活からはほど遠い境遇だった。

 仕方ないのでトイレ掃除やドブさらいなど、人のやりたがらない仕事を黙々とこなし、何とか食いつないでいたのだ。

 そんなベンにも転機がやってくる。ベンの生真面目な仕事が評価され、街の偉い人の目に留まり、勇者パーティの仕事を紹介してもらったのだ。ここでいい評判を得られれば貧困からは卒業できる。ベンはこの荷物持ちに賭けていたのだった。

 そういう意味で、勇者の機嫌を損ねてしまうことはベンにとっては痛手であり、うなだれてしまう。

「目の不調なら私が治しますよ」

 純白の法衣をまとったヒーラーのマーラが、ニッコリとほほ笑みながら勇者に声をかけた。マーラはたぐいまれなる美貌(びぼう)をもちながら優しく、温かなまさに天使のような存在で、ベンにとっては憧れだった。

「あっそう? なんか目が疲れてシバシバするんだよね」

 勇者はパチパチとまぶたをしばたかせる。

「あらら、大変です。ではいきます! ホーリーヒール!」

 マーラは純白の杖を高く掲げて叫んだ。すると、黄金色に輝く微粒子の吹雪が勇者を包み、勇者も黄金色に淡く輝いた。

「お――――! いいねいいね!」

 勇者は上機嫌に笑う。

 マーラはうなずくと、ベンの方に優しそうな目を向ける。

 ベンがペコリとマーラに頭を下げると、マーラはニコッと笑い、美しいブロンドの髪を揺らした。

 ベンはそんなマーラにドキッとしてしまう。しがない荷物持ちの子供にまで気を配ってくれるマーラの優しさは、辛く厳しい荷物持ちの仕事の大きな支えとなってくれていたのだ。

 この時、急にベンのお腹が激しく鳴った。

 ぐぅぅぅ、ぎゅるぎゅるぎゅ――――!

 真っ青になってお腹を押さえるベン。

 ここはダンジョンなのだ。トイレなどないし、どこに魔物が潜んでいるか分からない。だから用足しは休憩時間だけと厳しく決められていたが、次の休憩時間はまだずいぶん先だった。

 痛たたた……、漏れる……、漏れる……。

 ベンは冷汗をタラタラ垂らしながら、肛門を締め付ける括約筋(かつやくきん)に力をこめた。なんとか治まってくれないと困る。ベンは必死に祈りながら耐えていた。

 しかし、いつまで経っても暴れる腸は治まらない。ベンは必死に括約筋に力をこめ、押さえつけ続けたが、暴発は時間の問題だった。

「あのぉ、そろそろ休憩、どうですか?」

 ベンは覚悟を決め、勇者に声をかける。

「さっき休んだばっかだろが! 荷物持ちが足引っ張んじゃねーよ!」

 勇者はムッとした顔で答える。

「そ、そうですよね……」

 ぐぅ、ぎゅるぎゅるぎゅる――――。

 ベンの胃腸はかつてないほどうねり、強烈な便意が下腹部を襲う。

 く、くぅ……。マズい、漏れる……。

 ポタリと落ちる冷や汗。

 その時、視界の端で魔法使いがいやらしい笑みを浮かべているのに気が付いた。彼女は黒いローブに胸元を強調したビキニスーツを着込み、味方としては頼もしい火力だが、陰険で傲慢(ごうまん)、苦手なタイプだった。

 え?

 思い返せば、さっき彼女にもらった差し入れの飴はなんだか少し苦かったのだ。

 ハメられた……。

 ベンはギュッと目をつぶり、まんまと嫌がらせの策にはまってしまった自分の浅はかさにうなだれる。

 よりによって仲間に下剤を仕込むとは想定外だ。それもこんなダンジョンの深層で。しかし、腹壊してパーティの進行を遅らせたなんてことが広まると、もうどこにも入れてもらえなくなる。だからここは何としてでも耐え抜かねばならなかった。

 ベンは奥歯をギリッとかみしめ、内またで必死にパーティの後を追っていく。

「ベン君? だいじょうぶ?」

 マーラはそんなベンを見て立ち止まり、美しいブロンドの髪をかき上げながら、その鮮やかなルビー色の瞳でベンをのぞきこんだ。

「だだだ、大丈夫ですっ!」

 ドキッとベンの心臓は高鳴った。天使のような存在であるマーラに『便を漏らしそうだ』なんて口が裂けても言えなかった。

「そう? 辛くなったら言ってね」

 マーラは天使のほほえみを浮かべた。するとベンの便意も波が引くように治まっていき、ベンは恍惚(こうこつ)とした表情で「はい」と、うなずいた。


      ◇


 やがてたどり着いたダンジョンの最下層。そこには豪奢(ごうしゃ)な黄金の装飾が施された巨大な扉がそびえていた。

「いよいよ、ボス部屋だ! 総員戦闘態勢!」

 勇者は聖剣をスラリと抜き、掲げる。すると刀身に浮かび上がってくる赤い幻獣の模様。そして、模様が刀身を覆いつくした時、ピカッと閃光が走り、全員にバフがかかった。

 しかし、そのバフはなぜか治まりかかっていたベンの便意を刺激する。

 ぎゅるぎゅるぎゅ――――!

 激しく腸が鳴った。

 くぅぅぅ。

 お腹を押さえ、崩れ落ちるベン。便意は一気に最高潮に駆け上がる。

 ま、マズい、も、漏れる……。

 マーラが見てる前で暴発はマズい。だが、用を足せる物陰もない。ベンは絶体絶命の窮地(きゅうち)に立たされた。

 その時、ポロン! という電子音とともに青いウインドウが空中に開き『×10』と、表示される。しかし、ベンにはそれがなんなのか考える余裕もなく、ただ、脂汗を流していた。

「おい! 荷物持ち! 何やってる」

 勇者は弱っているベンを見てあざ笑う。

「これからって時に足引っ張んないでよね!」

 魔法使いはニヤニヤ笑いながらあざける。

 お前のせいだろうが! と、怒鳴りつけたい気持ちを抑えながら、ベンは括約筋に必死に喝を入れ、

「だ、大丈夫です。行ってください」

 と、何とか口を開いた。

「言われなくても行くわよ! あんたはどうせ戦闘じゃ役立たずなんだからおとなしく荷物見てなさい」

 は、はい……。

 ベンは下腹部を押さえ、荒い息をしながら答える。いつかやり返してやりたい気持ちもあるが、そういうネガティブな応酬は前世の頃から苦手なのだ。

 ベンはキュッと口を真一文字に結び、目をつぶる。

「チャージ!」

 勇者は巨大な扉を押し開け、威勢よくボス部屋に突入していく。

 薄暗いボス部屋の奥には一段高くなったところがあり、そこには宝飾品に彩られた玉座が据えてあった。その後ろには扉。きっと出口だろう。

「いらっしゃーい」

 女性口調の男の声が響いた。

 部屋の周りの魔法ランプがポツポツと点灯し、浮かび上がってくる豪奢なボス部屋のインテリア。

 声の主は玉座に座るタキシードを着込んだ男だった。おしろいを塗ったような白い顔には紫のアイシャドウに黒く太い唇、背中にはコウモリのような羽も生えている。魔人だ。

「ま、魔人!?」

 勇者の顔がゆがむ。魔物の中でも深刻な脅威と言われる魔人との対戦は初めてである。しかし、魔王討伐を目指す勇者パーティには避けては通れぬ敵でもあった。

 メンバーも険しい表情で魔人をにらむ。

「か、かかれー!」

 勇者の号令と共にタンク役は突進し、魔法使いは炎槍(フレイムランス)を唱え、一気に戦闘に突入する。

 ベンは便意を必死に我慢しながら部屋の隅でうずくまっていた。何とか物陰があればそこで用を足したかったが、あいにくボス部屋はがらんどうの大広間で柱の一つもない。こんなところで尻をまくる訳にはいかなかった。

 と、その時、ひときわ大きな音をたてながら腸が鳴った。

 ぐぅ、ぎゅるぎゅるぎゅる――――。

 くっ! ヤバいヤバい!

 脂汗がぽたぽたとおち、歯をくいしばって耐えるベン。括約筋は限界まで踏ん張っているが、便意はそれを上回る勢いで肛門を襲っている。まさに崩壊寸前だった。

 またポロン! と鳴って青い画面が目の前に開く。そこには『×100』と、書いてあった。

 ベンは訳の分からないウザったい表示にイライラしながら、必死に便意と戦う。今は何も考えられないのだ。

 ベンの頭の中で悪魔がささやく。

『どうせ誰も見てやしない。ささっと出しちゃえばいいんだよ』

 その甘露で魅惑的なささやきにベンの脳が揺れる。

 出すだけでこの苦痛から解放される。そう、出すだけでいいのだ。

 だが、天使は反論する。

『さすがに臭いはごまかせないわ。マーラにもバレるわよ? いいの?』

 くぅぅぅ。

 それだけは避けないとならない。ベンは涙をにじませながら歯を食いしばった。あの憧れのマーラに、汚物のようにさげすまれるのだけは絶対に避けなければならない。

 痛い、痛い、痛い、漏れる、漏れる、漏れる……。

 脂汗がぼたぼたと落ちていく。

 その時、ひらめいた。

 荷物の中に薬品箱がある。そこに下痢止めも入っていたはずだ。なぜ今まで気づかなかったのか?

 ベンは苦痛から解放してくれる夢の解決策に希望の光を感じ、狂喜した。そして、お腹を刺激しないようにしながらリュックを開き、震える手で下痢止めを急いで探す。


 一方、戦闘はヤバい状態に陥っていた。一斉に攻撃を開始した勇者パーティだったが、全く攻撃が通用しないのだ。魔人は玉座に座ったままニヤニヤしながら魔法のシールドを振り回し、タンク役を吹き飛ばし、魔法をはじき返し、隙を見て火魔法を放ってくる。

「チェストー!」

 勇者の放った聖剣の一撃もあっさりといなされ、逆にカウンターを受けて無様に床に転がされてしまう。

 ぐはぁ!

 あまりにも強すぎる。しかし、逃げるにしても逃げ切れるとは思えない。何か方法はないか、何か。誰かが囮になれば……。そうだ! 勇者はベンの方を振り向き、ニヤッと嫌な笑みを浮かべた。

 そして、魔人をタンク役に任せ、ベンのところへと走る。ベンを囮にしようと考えたのだ。


「あ、あったぞ!」

 ベンは限界ギリギリのところで下痢止めを見つけていた。それは絶望の中で見つけた一筋の光だった。

 しかし、魔人は勇者の変な動きを見て、ベンが何か荷物をゴソゴソしてるのに気が付いてしまう。

「何をやってるの! ファイヤーボール!」

 魔人は即座に火魔法を放つ。

 直後、ファイヤーボールはリュックに着弾、下痢止めもろとも吹き飛んでしまった。

 うわぁぁぁぁぁぁぁ!

 ベンは発狂した。ついにたどり着いた希望が目の前で炎に包まれ、吹き飛んでしまったのだ。

 プリッ!

 そのショックでベンのお尻から危険な音がした。

 生暖かい液体が尻の周りをゆっくりと流れていく。その、認めたくない現実が太ももをつたっている。

 ヤバい、ヤバい、ヤバい!

 ベンは真っ青になる。堤防が一部決壊! 緊急事態である。

 直後襲ってくる猛烈な便意。

 ぐぅ、ぎゅるぎゅるぎゅる――――。

 決壊を契機に、胃腸がグルングルンと大暴れをし、さらなる突破を狙ってくる。

 青い画面には『×1000』と、表示が出るが、もう見てる余裕もない。

 すると、駆け寄ってきた勇者が魔人の後ろの出口を指さして言った。

「ベン! お前出口へダッシュだ!」

「で、出口……?」

 ベンは朦朧(もうろう)としながら答える。

「そう、出口。お前なら行ける。GO!」

 ベンはぼんやりとする意識の中で、脳のどこかがブチッと切れる音を聞いた。

「出口! 出口! うわぁぁぁ!」

 ベンはそう叫びながら、魔神の後ろの出口をにらみ、内またでピョコピョコと走り出した。

 もう一刻の猶予もない。早く用を足さねば狂ってしまう。

 丸腰でピョコピョコと突っ込んでくるベンを見て、魔人はあざ笑う。

「荷物持ちの小僧に何ができるのかしら?」

 同時に勇者は撤退の口笛を吹いて、一行は静かにダッシュで入口の扉へと走っていく。魔人の意識をベンに向け、卑怯にも撤退して行ったのだ。

 漏れる! 漏れるっ!

 走り出してしまったベンの便意は最高潮に達し、もはや暴発しないのがおかしいレベルに達していた。そして限界ギリギリのベンからは、何人をも寄せ付けない殺意のオーラがぶわっと噴きだす。

「な、何よ。なんだっていうの、お前……」

 魔神は便意のオーラに気おされ、背筋にゾクッと冷たいものが流れるのを感じた。こんなに圧倒されたのは魔王と対峙した時以来である。

「ちょこざいな!」

 魔王はバサバサッと翼をはばたかせ、玉座から飛び上がるとベンの前に立ちふさがる。そして、指先で空間を裂くと中から紫色の炎をまとった魔剣を取り出したのだった。

 ベンにはもう出口しか見えていない。括約筋はもう何秒も持たない。暴発のカウントダウンはもう始まってしまったのだ。

 ヤバいっ! ヤバいっ!

 鬼のような形相で叫びながら必死に駆ける。

 魔人はベンのすさまじい気迫にひるみながらも魔剣を振りかぶり、

「究極奥義! 魔剣斬! 死ぬのよぉ!」

 と、目にもとまらぬ速さで振り下ろした。

 しかし、ベンはもう出口のことしか考えられず、邪魔する魔人など興味もない。迫りくる魔剣を、無意識にガッとつかむと、握りつぶして粉砕し、混濁する意識の中で、

「便意独尊!」

 と、訳わからないことを叫びながら、鮮烈なパンチを魔人の顔面に放った。

 魔人はその想定外の鮮やかな攻撃に吹っ飛び、まるでスカッシュのボールのように床に打ちつけられ、奥の壁に当たり、天井にバウンドして最後は頭から床に落ちてきて倒れ、最後は魔石となって転がったのだった。

 逃げようと走っていた勇者パーティはその異様な衝撃音に振り返る。しかし、そこにはもう魔人はいなかった。パーティメンバーは一体何が起こったのか理解できず、愕然(がくぜん)として走るベンを眺める。

「え? 魔人は?」「ま、まさか……」「ベン君……」

 しかし、ベンは立ち止まることもなく、そのまま出口の扉を吹き飛ばし、脱出ポータルへと駆けこんでいった。