『もう一度だけ、会って話したい』

 何度このメッセージを入力しては消したことか。別れを告げたのは自分なのに。

 それに、どうせ陸斗くんは真面目に話を聞いてくれない。私が勇気を振り絞って告げた別れを、強い言葉で一蹴するような人だから。

 ……だけど、そういうところがあっても嫌いになれないから困る。

『心菜先輩、無理しなくていーから。早く家に帰りなよ』

 陸斗くんがバスケ部に入部したばかり、私が中学2年生の頃。

 マネージャーである私の貧血を見抜いた陸斗くんは、私を荷物と共に容赦なく体育館から追い出した。自分だってハードな練習をこなして、さらには遅くまで残って自主練してるのに。

 毎朝、鍵を借りるのは私だから、誰が最後まで残っていたのか職員室の記帳を見れば丸わかり。他人に甘く、自分に厳しい。ついこの前までランドセルを背負っていたのに、なんたるストイック精神なんだろう……と、感動したのを覚えている。

 それから、家が近所だからと一緒に帰るようになって、恋バナをする仲にまで発展したとき。

『俺は確かにみんなと仲いいけど、別にモテてるわけじゃねーよ。告られたこととかねーし。……そういうの、なんか恥ずいし』

 かなりの熱視線を浴びているだろうに、気づいてないのは鈍感が過ぎるというもので。ハイレベルイケメンに告白できる猛者がいないだけだよって、ツッコもうとしたところに不意打ちの赤面。あれは結構ずるかった。

 極めつけは、中学の卒業式の日。

『1年も心菜先輩と離れたままとか、ぜってー無理。俺の彼女になって』

 正門での公開告白はびっくりやら嬉しいやら恥ずかしいやらで、感情がとんでもないことになってたんだよ。さらには、

『心菜先輩のことちゃんと、その……好き、だから』
『あ、ありがとう。えっと……さっき言わなかったのは恥ずかしかったから?』
『ちげーし。俺の“好き”は心菜先輩にしかあげねーの』

 いたずらっ子みたいな笑みを向けるから。男らしくて、ピュアで、無邪気な陸斗くんにドキドキしっぱなし。自覚しないで振りまくから罪だよね。

 ……ねぇ、本当に大好きだったの。

 付き合う前もその後も、数えきれないくらいに思い出があって幸せだった。それはもう、忘れるために涙へ詰め込んで流してるのに、色褪せてもくれないほどに。

 だけど、一年が過ぎて、陸斗くんが同じ高校にきて。

 廊下ですれ違ったり、お昼を一緒に食べたり。2人で過ごす時間が増えて、だからこそ、それが平凡な日常になって……いつの間にか、慣れちゃったよね。

 “好き”だけで上手くいく世界だったらどんなによかっただろう。

 そしたら私は不満なんて抱かずに、今も陸斗くんと同じ道を歩めたはずなのに。……なんて、それはいくらなんでも性格が悪いね。

 ほんとはわかってるよ。悪いのは世界でも陸斗くんでもなく、私だってことくらい。

 もっと、本音を晒せば……醜くても、嫉妬してるって伝えればよかったって。

 もっと、デートしたいとかお話したいとか、わがままを言うべきだったって。

 陸斗くんが鈍感なのは知ってたんだから、それなのに我慢なんて大人なふりをした私がバカだった。

 結局、離れ離れなんておかしな話だよね。

 未練が残らないように、翌日から受験勉強を理由にマネージャーも引退して、進学も県外にして……会わないって決めたんだ。

 でも最近、陸斗くんが女の子を拒否するようになったって風の噂できいたよ。せっかく徹底してたのに、陸斗くんが人気者なせいだね。

 今頃、元気にしてるかな?ちゃんと前に進めてるかな?

 気になって仕方がなくて、

『もう一度だけ、会って話したい』

 気づけばまたそんな文字を並べてる。

 中途半端な、大学1年生の秋。


◇ ◇ ◇


 神様は今更願いを叶えてくれたのかな。私が”苦しみから解放してほしい”ってどれだけ叫んでも無視してたくせに……なんて無責任で気まぐれなんだろう。

「……ここ、な?」
「陸斗くん……」

 久しぶりに帰省して、仲のいい友達から誘われて行った水族館。

 まさか。ほんとにまさか、陸斗くんに会えると思わなかった。陸斗くんも相当驚いているみたいで、切れ長の目が丸みを帯びている。

「久しぶり……ってのも変かな? メッセージでのやり取りは頻繁にしてるし」
「そうかもしれねーけど、別に変でもないだろ」
「あはは、そっか~」

 どう返すのが正解?

 そんな迷いから、へらりとした笑みを作ってしまう。

 随分昔、陸斗くんに私の一番好きなところを聞いたときに返ってきたのが『心菜の笑った顔』だったから、せめてそれは崩さないように頑張ってきた。いつの間にか、陸斗くんはなにが気に食わないのか不機嫌な顔をするようになってたけど……今だってちょっとしかめっ面だし。

 気分が落ち込みかける私の肩を叩いたのは、心配そうにこっちを見ていた友達で。

「心菜? どうするの?」
「ごめん、先に行ってて」

 ここで会ったのもなにかの縁だと、陸斗くんと話し合うことにした。

 それから広場に出て、気を利かせた陸斗くんが買ってくれた炭酸ジュースに驚く。

 私の好きなやつ、知ってたんだ……。しかも、覚えてくれていたなんて。

 じわり、胸が温かくなった。

 もうちょっとこの温もりを感じていたい。本題に入るのはもう少し後でもいいのかもしれない。

 だけど、話を続けていくと不穏な言葉が聞こえて。

「あっ、ストーカーじゃねぇからな!? 心菜の幻影っていうか、記憶を頼りにそこを通ってただけだから! ここで会ったのはまじで偶然なの! 信じて!」

 隣に座ったまま、でも、食い気味に半身を私の方へ寄せて必死な様子の陸斗くん。私と同じで思い出を辿ってたんだって嬉しくなったのと同時に、沸々と込み上げてきたのは笑いだった。

「な、なんで笑ってるんだよ!」
「だ、だって……くくっ、そこまで全力で弁解しなくてもいいでしょ? しかも幻影って……ふふっ」

 あぁ、懐かしいなこの感じ。

 付き合ったばかりの頃の痴話喧嘩。いつも陸斗くんが焦って、今みたいに必死で謝り倒していたっけ。そんな陸斗くんが“可愛いな”って思えて……怒ってたのなんか忘れちゃってたんだよね。

 呑気に昔の思い出に浸っていると。

「……ちょ、っと、陸斗くんっ!」

 突然、懐かしい温もりに包まれた。それから、

「心菜先輩。好きなんだ、ずっと。今も」

 恋心を搾ったみたいな、ほんのちょっとの震えと苦みが混じった甘い声が耳にかかる。

 瞬間。“始まり”へとタイムスリップして、あの頃のたくさんのドキドキが思い起こされた。涙で流しきれなかった分、鮮明に。

 手を繋いでいなくても、目が合っていなくても、ただ隣にいるだけで胸がいっぱいで。ふいに肌と肌が触れ合ったり、偶然に視線が重なったり……些細なことなのに一年分の幸せを使い果たしたくらいの喜びだった。

 初めて“先輩”抜きで名前を呼ばれたとき。初めて記念日を迎えたとき。初めて恋人らしい触れ合いをしたとき。

 それらが1ページ1ページ、アルバムをめくっているのと同じような感覚で流れていく。そこには当時の感情の揺れはない。ただただ懐かしい、大切な宝物。……だからこそ。

「もう絶対に泣かせねーから。今度こそ、幸せにしてみせるから」

「―――うん。次はそうしてあげてね」

 生まれ始めた同情を心から断ち切るように、陸斗くんの身体をそっと押し返した。離れた陸斗くんは、たくましく成長したはずなのに弱々しくて小さく見える。私のよくない返事を受け入れられないのか、重たい雲のせいで光のなくなった地面をぼーっと見つめている。

 でも、未来の話をしたい私は短く息を吸って口を開く。待ってはあげられない。

「次に陸斗くんが好きになった人には―――」

「やめろ! 聞きたくねーよ!!」

 陸斗くんが望む未来。私が望まない未来。

 陸斗くんの気持ちを優先して叶えてあげるのは簡単で、だけど、きっと同じ結末を迎える。私たちはそういう組み合わせで、運命だろうから。

 ほら、私たちの嫌いな雨が優しく導いてくれてるよ。見られたくないものも、しっかり隠してくれる。

「ごめんね」

 一滴、ほんの僅かな未練が私の目から零れ落ちた。

 さぁ、聞いて。私の最後のわがままを。一言一句、逃さずに。

 それに、力の入る利き手で元気を分けてあげるから約束をしよう。

「友達を大事にする陸斗くんは素敵だけど、彼女の相手もしてあげないとね」

 私たちの指切りを邪魔するかのように雨音が強くなる。でも、私は声量を上げない。

 だって陸斗くんは、私の照れ隠しの『好き』もしっかり聞き取って受け止めてくれていたから。今の大事な話も、聞こえないふりさえしないよね。

「彼女の気持ちとか行動とか。一つ一つに目を向けて、ちゃんと向き合ってあげて」

 それは私のちょっとした嫌味で。

「私みたいな人を、絶対に好きになっちゃダメだよ」

 これは陸斗くんへの念押し。

「私のわがまま、聞いてくれる?」

 口を閉ざし、手を差し伸べたくなるような目で私を見つめる陸斗くん。

 ……でも、もう迷わない。これが私たちにとって一番いいお別れ。

 だから、もうお願い。頷いて、約束をして。

 そんな切実な思いで陸斗くんを見守っていると、ゆっくりと応えてくれたから。

「ありがとう」

 私はようやく安心できて、心の底から笑顔を浮かべられた。最後に陸斗くんへ、愛おしさを置いていけた。

「じゃあ、ばいばい」

 大人っぽい秋服はたっぷりと水分を含んでいるけど、不思議と心も身体も軽くて。遠くでは雷が鳴き叫んでいるのに、グレーの雲はいつもよりも明るく見える。

「約束、できた……」

 館内に戻ってしばらく経ち、身体に温かさが戻ったとき。小指にあった熱はもう感じられなかった。久しぶりに分けられた熱は、消えてしまったのがほんの少し名残惜しい。そんな思いも全部、胸の奥底へ思い出として大切にしまっておこう。

 最後にわがままを伝えられたから、何年かかっても果たしてくれるって信じてるから。

 だから、もう前を向いて。一人、力強く笑顔で。