「あっ、ちょっと待って。私、さっき普通に本名で呼んじゃったわよね? いや本当にごめんなさい……っ」
「誰にも聞かれていないので大丈夫ですよ」

 こんな時でも俺の事を気にかけてくれるなんて。
 俺は罪を償う為に、帝国の道具として生きる罪人だから……こんな風に気を揉んでもらう資格は無いのに。それでもこんな風に王女殿下に気を使って貰える事が、その御心の欠片だけでもいただける事が、凄く嬉しいんだ。

 早速仕事の話に移ろうとした時。王女殿下が俺の背を押して長椅子《ソファ》に座らせた。その後王女殿下直々に注がれた紅茶を出された。
 飲んで、いいのか……? 俺なんかが王女殿下が手ずから入れてくださった紅茶を飲んでもいいのか……?!
 いやでも飲みたい。正直に言うと物凄く飲みたい。だが俺は罪人だ…罪人が、女神のごとき恩人の入れた紅茶を飲むなどそれこそ罪に等しいのでは? いやしかし、逆に王女殿下が手ずから俺の為に入れてくださった紅茶を飲まないというのも、とても失礼だと思う。

 俺はどうしたらいいんだ…………っ!? と悩んだ末に恐る恐る紅茶を飲んだ。美味しい。人生で一番美味しい気がする。

「では依頼内容の確認の方に移ります」

 紅茶を飲みほしてから、俺はおもむろに話を切り出した。
 この依頼内容でいいのか……その調査対象で本当に大丈夫かと、それだけは確認した。諜報部に入ってから色々な情報を目にしたけれど、王女殿下が調査を命じた組織は俗に闇組織にも分類される危険な組織だった。

 何故王女殿下があの組織の情報を求めるのか、俺には分からないが……道具が使用者の意図を問うてはならない。ただ命じられたままに仕事をこなすだけである。
 そうやって依頼内容を確認し終えて、もう王女殿下のお傍を離れないといけないといった頃。

「……仕事中に私情を挟むのも、あまりよくないんですが……その。どうしてもお伝えしたい事がありまして」

 どうしても、彼女に伝えたい事があった。
 次に会う時に絶対に伝えようと思っていた事があった。

「ありがとうございました。王女殿下のお陰で、俺──今とても幸せなんです。本当にありがとうございます」

 深く頭を下げて、なんとか自分なりに笑顔を作る。
 ずっと探し続けていたエルと再会出来て、罪を償う事も出来て、人間らしく生きる事が出来て。
 俺は本当に幸せだった。全部、王女殿下のお陰で手に入れた幸せ。だから、どうしても感謝を伝えたかった。

「……そっか。なら良かったわ」

 王女殿下の慈愛に満ちた微笑みが、眩しく我が不良品の眼に映る。……駄目だ。このままここにいたら、名残惜しさに離れられなくなる。
 今すぐ離れないと。早く、諜報員として仕事に戻らないと。

「では、俺はこの辺りで。依頼完了次第、報告にあがります」

 逃げるように覆面を着けてローブを目深に被り、そそくさと王女殿下の私室を後にする。
 王女殿下の前ではなんとか感情を抑えていたが、彼女ともう一度会えた喜びから熱く火照る頬を夜風で冷ます。

 その夜は興奮から眠りにつけなかった。今まで暫くの間遠くから眺めるだけであったあの御方を、あんなにも近くで見る事が出来た。なんなら話す事も、名前を呼んでもらう事も出来た俺は──、

「あぁもう……っ、全然眠れない……!」

 自室のベッドの上で、枕をぎゅっと抱き締めて暴れていた。
 そしてその翌朝から俺は早速王女殿下からの依頼に取り掛かった。まずは資料庫で調査対象の本拠地を調べた。下調べを終えてから実際に現地に行き、王女殿下がお望みの情報に加えて、あれば便利なそうな情報も片っ端から集めた。

 期間は二ヶ月と言われていたが、出来る人間は早めに仕事を終わらせるべき。一ヶ月程で調査を終え、俺は王女殿下への調査報告にあがった。

 一ヶ月振りに戻った王城は大騒ぎだった。なんでもこの一ヶ月のうちに王女殿下が何かの法の改正案を練ったとかで、俺が戻った日の翌朝に貴族会議なる大規模な会議が行われるとの事。
 王女殿下もそれに参加するようで、報告はそれが終わってからにしようかと思ったのだが……とにかく早く報告して、あわよくば褒めていただきたいという欲望があったのだ。

「大変長らくお待たせ致しました、王女殿下」
「待ってたわよ──……ルティ」

 貴族会議が始まるよりも前に、俺は王女殿下の元に向かった。そこでは、綺麗に着飾った王女殿下が小声で俺を歓迎してくれた。
 ……部屋の外に男が一人。相当な手練だけど、多分この感じからしてあの日の夜──どころか、ずっと王女殿下の傍にいる騎士の男だろう。王女殿下のお傍にずっといられて羨ましいな……いつでも王女殿下の役に立てるなんて本当に羨ましい。

「王女殿下、依頼されていた調査が終わりましたのでその報告に参りました。こちらになります」

 王女殿下に選ばれる程の優れた相手に分不相応な嫉妬を抱く。しかしそれを無理やり振り払い、俺は報告を始めた。
 闇組織スコーピオン──それにまつわる様々な情報を記した報告書を手渡し、口頭でもそれを伝える。念には念を……とこっそり小範囲に結界を張り、外の騎士に会話が聞かれぬよう心がける。

 時々王女殿下から質問を投げ掛けられ、それに答えるなどして報告の時間は過ぎてゆく。一通りの報告を終えると、王女殿下が裏のありそうな笑みを浮かべ、

「……ありがとう、ルティ。お陰様でようやく私も決心がついたわ」

 おもむろに語り出した。どういう事なのかと、彼女の暗い色の瞳を見つめる。

「決心、ですか?」
「えぇ。これはここだけの話なんだけどね──」

 ふわりといい香りを漂わせて、王女殿下は俺の目の前まで近づいて来た。次に踵を上げ、桃色の小ぶりな唇を俺の耳元に寄せて、

「私、最低最悪の王女として暴れるつもりなの」

 初めて見るような、艶やかな表情で囁いた。初めて会った時の殺意に満ちた表情でもなく、俺に救いの手を差し伸べてくれた時の勇ましい表情でもなく、涙を流す俺に静かに寄り添ってくれた時の慈愛に満ちた表情でもなく、遠くからこっそり眺めていた時の年相応の表情でもない。

 本当に初めて見る表情だった。どうしてか、今の彼女は十三歳の少女に見えず、歴史に聞くような悪女を彷彿とさせる。