そして汗をかいたからと私は一度着替え、落ち着いた場所で話しましょうと言った彼女にただ着いていく事十分程。貧民街からもほど近い大通りの洒落た喫茶店に案内された。
 まだ早朝という事もあり周りの店は開店もしていなくて、それはこの喫茶店とて同じ筈なのに……彼女はなんの迷いもなく開店すらしていない喫茶店に入っていった。
 開店前の店内はとても静かだった。落ち着いた雰囲気の店内に一人、堂々とした風格で新聞を読んでいる男の姿があった。
 ハイラはその男の元まで私を案内し、そして紹介した。

「イリオーデ卿、こちらはホリミエラ・シャンパージュ伯爵です。そして伯爵、こちらが件のイリオーデ卿です」
「やぁどうも、ホリミエラ・シャンパージュだ。イリオーデ卿とは過去に何度か会った事があるんだが、覚えているだろうか?」
「……申し訳ないが記憶に無い」
「はは、それも仕方ないか。もう十年以上も前の事だ」

 シャンパージュ嬢より明るい藍色の髪に、知的な丸眼鏡をかけた若く見える男。彼はなんとシャンパージュ伯爵なのだと言う。
 ……何度か会った事があるというのは、幼い頃に母に連れられて行ったパーティーなどでの話だろうか。申し訳の無い事に本当に何も覚えていない。過去の事など王女殿下の事しか覚えていないのだ。

 そんな私の失礼な態度をシャンパージュ伯爵は咎めはしなかった。楽しげに笑うだけであって、気を悪くした様子もない。流石はシャンパージュ家、いい意味で本当に変わり者だ。
 そのシャンパージュ伯爵に「どうぞ座って」と促され、私とハイラは席についた。結局、何の目的で呼び出されたのか分かっておらず困惑していた私に向け、ハイラがようやく説明してくれるらしい。
 彼女は栗色の瞳に真剣そのものを宿し、話し始めた。

「──これより、私の爵位簒奪計画の作戦会議の方を執り行います。協力者はシャンパージュ伯爵、イリオーデ卿……宜しいですね?」

 何も宜しくない。そのような計画は今初めて聞いた。彼女は爵位簒奪をするつもりなのか? いや、そもそも簒奪する価値がある程の爵位の名家の生まれなのか。
 その協力者に私が選ばれた事も不可解だ。十年程前に丁度爵位の簒奪が起きた家出身だからか? かと言って私が出来る助言など一つも無いぞ。
 どうして私はこの場に呼ばれたのだろうか……全くもって分からないし、もう帰ってもいいだろうか。帰って素振りの続きをしたい。

「……何故自分がこの場にいるのか分からない。そんな顔をしていますね、イリオーデ卿」
「よく分かったな。その通りだ」
「見れば分かりますよ。ではお教えしましょうか、貴方をこの場にお呼びした理由について」

 ハイラはそう言って、改まった面持ちでこちらを見た。

「私の本名はハイラではございません。この名は姫様から頂いたもう一つの私。私の本当の名は──マリエル・シュー・ララルスと申します」

 その時私は目を見開いた。その名はランディグランジュにいた頃に聞いた事があった。
 帝国の財政を担う歴史あるララルス侯爵家の庶子、マリエル・シュー・ララルス。うちの兄がかつて一目惚れしたと言っていた、ララルス侯爵家の美しき汚点。

 そうか、だから彼女の栗色の瞳には妙な既視感を覚えたのか。ララルス侯爵家の人間の多くがあの色の瞳をしているから。
 まさか王女殿下の専属侍女に侯爵令嬢がなっているだなんて…………はっ! もしや私が女であれば、彼女と同じように侍女として王女殿下のお傍にお仕え出来たのでは? 何故私は男として生まれたんだ……ッ!