私は、フォーロイト帝国の中でも名のある家門ランディグランジュ侯爵家の次男として生まれた。
 イリオーデ・ドロシー・ランディグランジュ。それが私の名前。ただかくあるべしと定められた理想像へと進む事しか出来ない、感情らしい感情を持たず生きる意味も持たなかった男の名前だ。
 …………もう、この名を名乗らなくなって十年以上経つ。両親は兄の爵位簒奪により死に、私は名を捨てて隠れて生き延びる道を選んだ。
 私の大望の為には生きてなくてはならない。兄に殺される訳にはいかなかったのだ。……もっとも、兄と剣の勝負になっても負ける事は無かっただろう。ただ、兄の側には簒奪の協力者らしき大人達がいた。
 あれら全てを相手取るのはまだ幼い私ではきっと不可能だった。だからこそ、母の遺言に従い貧民街へと逃げ込んだのだ。
 私はどうしても生きてなくてはならない。我が大望、我が大願、我が生きる意味の為にも生きてなくてはならないのだ。


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 初めてあの御方にお会いしたのは、私がまだ七歳の頃だった。
 薄紅の髪に花のように美しい紫紺の瞳を持つ、我等が国母皇后陛下……その人と初めてお会いしたのは、母に連れられて、生まれたばかりの王子殿下に拝謁する喜びに与れた時だった。
 ランディグランジュ家は帝国に忠誠を誓うもの。その為、いずれこの御方を守る騎士となる私と兄も挨拶を……と言う事情だったらしい。……相手は生後間もない赤子なのに、意味は無いのでは? と兄が口を滑らせた際には母から強い拳骨が繰り出されていた。

 兄はそれが恥ずかしかったのか私までもを巻き込み、母に『僕だけ怒られるのはおかしい!』と直談判をした。しかし母はそれに騙される事無く兄を叱る。それを経て更に兄の機嫌が悪くなりまた私が巻き込まれる……そんな悪循環が始まる。
 そんな様子を見て、皇后陛下は微笑ましそうにクスクスと笑う。当時七歳でまだ何も知らない子供だった私は、皇后陛下が何故笑っているのか皆目見当もつかなかったのだ。

 その後……一年程が経った頃だろうか。次期侯爵と言う訳でもない私に、母伝で皇后陛下からお声がかかった。
 何でも私に王子殿下の遊び相手になって欲しいと。一歳になったばかりでようやく歩けるようになった王子殿下を、何故私のような剣を握る事しか知らない人間に?
 そんな疑問がふつふつと湧いて出たものの、皇后陛下直々のお言葉とあれば断れる筈も無く。母と共に皇宮まで馳せ参じ、私は本当に王子殿下の遊び相手を任された。

 王子殿下はとても大人しい御方で、遊ぶと言ってもずっと黄昏れるか絵本を読むかばかりだった。皇后陛下と母が近くでお茶をしながらこちらを見守る中、私は本当に何もしていなかった。
 ……一歳の子供が黄昏たり一人で絵本を読むものなのかと疑問にも思ったが、皇后陛下は『やっぱり旦那様との子供だから天才なのかしら?』と母と楽しげに会話するばかり。
 育児の覚えなど全く無い私にはこれが正しい事なのかどうかさえ分からない。なので深くは考えず、王子殿下に必要とされた時に応えられるようにしておこうと、その日は待機する事にした。