「ねーハイラー、これつまんなぁい」
「つまらないからと言って止められるものではありません」
「そんなぁ〜……おねぇちゃんと一緒にいたいのにぃ」
「それは私とて同じです」

 山のように積み重なる教本に囲まれ泣き言を漏らすシュヴァルツに、喝を入れます。彼は一見打たれ弱いようで全然打たれ強い人なので問題無いでしょう。
 それはなんて事ない昼下がり。特別に、姫様より少しばかりの余裕を頂きまして……私は世間知らずのシュヴァルツに教育を施す事となりました。
 事の発端は遡る事数日前。姫様と共に貧民街へと赴いた時、私は目を疑うような光景を目の当たりにしました。

 ──何故、ランディグランジュ家の人間がこのような所に?!

 彼を見た瞬間、私はそう叫び出しそうになったのですが必死に堪えました。あの時は、動揺を悟られぬよう表情にも特段気を使いましたね。
 昔、実家に何度かいらっしゃった四大侯爵家が一つランディグランジュ家の当主……その方と全く同じ青い髪を持つ青年が貧民街にいたのです。その面持ちは前侯爵夫人に似ており、もはや疑う余地もありませんでした。
 恐らく彼は、十数年前に失踪したと言われているイリオーデ・ドロシー・ランディグランジュ……そう予測を立てていた所、見事に的中してしまったのです。
 失踪したと言われている元四大侯爵家の人間が、私兵とは言え、姫様に関わる事がどれ程自分の身に危険や影響を及ぼすか……彼は全く考えていないようです。
 失踪したとなっていようとも、彼がランディグランジュ家の人間である事は一目で分かります。そんな彼が姫様に従うと言う事は、見方によればランディグランジュ家が姫様の派閥に入ったようなもの。
 ただでさえ姫様にはシャンパージュ伯爵家と言う強大な支持があると言うのに……それに加え四大侯爵家の支持まで受けてしまえば、いよいよ姫様も権謀術数に巻き込まれる事となるでしょう。
 それではいけないと思い、急遽こうしてシュヴァルツに教育を施す事にしたのです……え? それとこれに何の関係があるか、ですか。
 そうですね、シュヴァルツは類稀なる身体能力を持っています。それがあれば姫様をお守りする事に役立つかと思ったのです。
 この授業の理由は単純明快、姫様の側に控える者はそれ相応の教養が無ければならないからです。なので、私自らこうして時間を割いて授業を行っていると言う訳にございます。

「そこ、綴りが違います」
「うげぇっ…………もーやだぁ! ぼくは別にこんなのやらなくてもいーもん! 必要ないもんー!」

 持っていたペンを放り投げ、シュヴァルツが足をじたばたさせて暴れ出しました。
 彼の動きに合わせて椅子もガタガタと不安定な動きを取り始め、ついには勢い余って後ろに倒れてしまったようです。

「……一旦休憩に致しましょう。紅茶を入れますのでしばしお待ちを」

 ここまで本人の意欲が削がれてしまっているのに、更に無理強いを続ければもっと事態が拗れる事になるでしょう。
 なので彼には一旦、小休憩《ティーブレイク》を取らせ気分転換をしてもらう事にしました。
 ……そう言えば、皇宮で姫様以外の人の為に紅茶を入れるのは初めてですね。
 勿論、姫様以外にも紅茶を振舞った事はあるのですが、その全ては姫様のついでに振舞っただけに過ぎなかったので…………姫様の為ではないこの行為に、私は酷く違和感を覚えてしまいました。

 カップに並々注がれた香り立つ紅茶をぼぅっと眺めながら思案する。
 シュヴァルツの前に紅茶と共に手軽な菓子を出すと、彼は幼い子供のようにそれに食いつきました。見たところ十歳前後の印象を受けますが……実際はどうか知りませんからね。
 一度カラスに調べさせはしたのですが、シュヴァルツに関する情報は全くと言っていい程出てこなかったようなので。
 無邪気で空気の読めない世間知らずの家無き少年……しかし、それでありながらたまに高貴さを感じさせる堂々とした姿勢。果たして、彼は一体何者なのでしょうか。