「おやすみ、メイシア」

 目に入れても痛くないぐらい愛しい一人娘が眠ったのを確認し、私はそう告げた。
 すー……すー……と小さく寝息を立てるメイシアを起こさぬよう、細心の注意を払い娘の部屋を出る。
 廊下に出ると、執事長のオルロットが未だ潤う目元をハンカチーフで拭っていた。私に気づいたオルロットは急いでそのハンカチーフをしまった。

「……如何でしたか、お嬢様のご様子は」
「ぐっすりと眠ってくれたよ。……まさかこんな時間に帰ってくるとは」

 壁に掛けられた時計に目を送る。それは今三時半の辺りを指している。メイシアが帰って来たのはこれより二時間程前。
 それより二時間程の間、メイシアから話を聞いたりメイシアが軽く湯浴みをしていたり……色々とあって、ようやく就寝に至ったのだ。

「……本当に、良かった。無事に帰って来てくれて」

 それだけが本当に嬉しくて、私は安心したあまり目頭を熱くした。
 メイシアの話によると、メイシアは四日前にどうしても欲しい物があったとかで一人で買い物に行き、その際に拐かされてしまったらしい。
 その後人身売買を行う奴隷商の拠点まで連れて行かれ、その容姿の愛らしさから早々に買い手がついてしまったとか。
 明日……いや今日の朝にはどこかの屑の元に売り払われてしまう所だったのだが、そこに偶然現れたのが、王女殿下──スミレと名乗る少女だったらしい。
 王女殿下はどこかで人身売買の噂を聞き、そして自ら商品として捕らわれる事で奴隷商の拠点を暴いた。その上で無辜の子供達を解放し救い出さんとして身を粉にしたらしい。
 更にはこれ以降被害が出ないようにとたった一人で大の大人達に立ち向かったのだと言う。人身売買の証拠を手に入れる為に大人達と正面から戦い、そのほとんどを打ち破ったのだとか。
 メイシアが何度も笑顔で、

『スミレちゃんは凄いの!』

 そう繰り返すので、私はつい、頬が緩んでしまった。……ただ、その際にメイシアも少しだけ魔法を使ったと聞き、それには肝を冷やした。
 王女殿下は確か御歳が十二程であらせられる筈だ、それだけの少女が大人達相手に何故無事でいられたのか……私はどうしてもそれが不思議で仕方無かったのだが、それにはメイシアが、

『だってスミレちゃんだから。とっても強くて、綺麗で、優しい、わたしの女神様のスミレちゃん……じゃあなくて……アミレス様だから!』

 と初めて見るような満面の笑みで答えた。あのメイシアがこんな風に笑って、こんな風に誰かの事を楽しげに話すなんて……とここでも私は泣いてしまいそうになった。
 社交界や世間で『野蛮王女』と称される剣を振る王女……これまでただの一度も表舞台に姿を表さず、社交界では常に様々な憶測が飛び交わされている。
 そして何よりも広まっている王女殿下の噂と言うのが──皇帝陛下と皇太子殿下よりその存在を疎まれている。と、言う旨のものだった。
 勿論、私は噂など信じていない。この目で見たものしか信じない主義だからだ。
 しかし社交界は違った。噂好きの令嬢や貴族達は恐れ知らずにも、そのような不敬にあたる噂を人目を憚る事無く口にする。さもそれが事実であると確信しているかのように。
 だが、私はそれを信じなかった。噂のように皇帝陛下が王女殿下に関心を示されておらずとも……私は全て、自身の目で確かめない限りは信じるつもりは無かったのだ。
 …………そうは言いつつも、僅かにだが私も誤った先入観を持ってしまっていたらしい。どれだけ信じまいとしていても、気がつけば誤った先入観、誤った前提で物事を考えていた。