「あ……」

 シアンがいきなり嫌な声を出す。

「な、何だよ!」

「百目鬼から着信だゾ」

 シアンは首を傾げ、玲司に言う。

「はぁ? 今さら何だってんだよ!」

「どうする? 切る?」

「むぅ……。話だけしてみるか」

「ダメよ! 何言ってんのだ! 話すならもう一発当ててからなのだ!」

 美空は真っ赤になって怒った。

「いや、でも、話し合いで何とかなるかもしれないじゃない?」

「何言ってんのだ! 奴は殺しに来てんのよ?」

「話だけでも聞いてみようよ。判断するのはその後でいい」

「バカッ! 好きにすればいいのだ!」

 美空はプイっとそっぽを向いた。

「つなげて」

 玲司はシアンを見る。

「はいよ!」

 浮かび上がるひげ面の仮面男、百目鬼だ。

「やぁ、玲司君。君、凄いじゃないか」

 陽気に話しかけてくる。

「散々殺しにかかってよくそんなこと言えますね? 一体何の用ですか?」

「いやいや、君のことを見直したんでね、対立するのは止めたいと思ってね」

 手を広げながらオーバーなゼスチャーをする百目鬼。

「それは嬉しいですが……、どういった条件が?」

「クックック……。世界の半分をやろう。どうだ、悪くない話だろ?」

 お面の向こうで目がギラリと光る。

「人を殺すプランには乗れません」

 玲司は毅然とした態度で返す。

「ふーん、それじゃ平行線だな」

「それに世界の半分をくれる保証だってないですしね」

「ほぉ、よく分かってるなぁ……。あ、お前そこにいたのね。じゃあ、死んで」

 そう言うと百目鬼は消えていった。

 え……?

「言わんこっちゃない! 時間稼ぎをされたのだ!」

 美空はバン! と玲司の背中を叩いた。

「ど、どうしよう!?」

 飛んでいたドローンは大きく旋回をすると、こちらにまっすぐに進路を取ってやってくる。

 玲司は慌てて中華鍋を向けるが、いつまで経ってもドローンの制御は奪えなかった。

「ダメだ! 外部からの指示を受けないようになってる。逃げるゾ!」

 シアンはそう言ってツーっと逃げ出した。

「逃げよう!」

 玲司は中華鍋を放り出し、エレベーターホールまでダッシュをするとボタンを押した。

「バカね! エレベーターなんて堕ちるのだ!」

 美空はそう叫び、隣の非常階段のドアを開け、駆けおりていく。

「うわぁ、待ってよぉ」

 二人は飛ぶように非常階段を駆け下りていく。

「せっかくの勝機を逃したのだ!」

 美空は叫ぶ。

「悪かったよぉ」

「もう知らんのだ!」

 直後、ズン! という衝撃がビルを襲い、まるで大地震のようにグラングランとビルを揺らした。

「うわぁぁぁ!」「キャ――――!」

 ガラス窓が次々と吹き飛び、非常階段の下の方が崩落していく。

「ヤバい! ヤバい!」「ひぃぃ!」

 漆黒の爆煙が辺りを埋め尽くし、二人はなすすべなく揺れる非常階段の手すりに何とかしがみつく。崩落してくる瓦礫が非常階段にもガンガンと当たり、危険な状態が続いた。

 ケホッケホッ!

 美空が次々と吹きあがってくる爆煙にせき込む。玲司は目をつぶり、ただ沈静化を待つしかできなかった。

 爆煙が晴れていくと、状況が分かってきた。非常階段はすぐ下五階分くらいが吹き飛んでなくなっており、落ちたら即死間違いなかった。また、二人がしがみついている鋼鉄製の非常階段はパイプ一つで上につながっており、今にもちぎれそうである。

 まさに絶体絶命。今、二人の命は風前の灯火となってしまった。

 美空の手がブルブルと震えている。

 それを見た玲司はハッとして、『美空は自分が守らねば』と、冷静になることができた。

 美空を、大切な人の安全を確保せねばならない。こんなことに巻き込んだのは自分のせいである。たとえ自分が死んでも美空だけは守らねばならないのだ。

 玲司は生まれて初めて、自分の命より大切な存在があることを知る。無責任に楽して暮らしたがっていた高校生は、この世界に生きる意味の一端にたどり着いたのだった。

「美空、先に上に行って。そーっと、そーっとな。下は見るなよ~」

 玲司はやさしく声をかける。二人同時に動いて揺れるとちぎれかねないので、まず、美空を行かそうとしたのだ。

 ひぃっ!

 つい下を見てしまって真っ青な美空は足がガクガクと震えてしまう。

「大丈夫、大丈夫。さぁゆっくり行こう」

 玲司は冷や汗を流しながらも笑顔を作り、ゆっくりと優しく声をかけた。

 美空はこくんとうなずき、歯をカチカチと鳴らしながら一歩一歩上を目指す。

 風が吹くたびにゆらゆらと揺れる非常階段。二人の命運は頼りなげな細いパイプ一本にかかっていた。

「よしよーし、いいぞ。ゆっくりな」

 ふぅー、ふぅー、という美空の荒い息が聞こえる。

 そして最後の段まで行き、手すりに手を伸ばした。

「そうそう、もう少し……ヨシ!」

 ガシッと美空の手が手すりをつかんだのを見て、玲司はホッと胸をなでおろす。

 次は自分の番だ。体を動かすと階段も揺れ、実に頼りない。

 冷汗を垂らしながら一歩一歩上を目指す。

 もう少しのところで美空が腕を伸ばしてくれた。

「早く捕まるのだ!」

「サンキュー!」

 美空の手をガシッと握り、お互いに目を合わせてニヤッと笑った。

 と、その時だった。ビュゥと一陣の風が吹き抜け、階段が大きく煽られる。

 運命の女神は何が気に障ったのか、決定的な場面で二人に意地悪な試練を課したのだった。










22. 菩薩の笑顔

 大きく揺れる非常階段に二人は翻弄(ほんろう)される。

「うわぁ!」「いやぁ!」

 バキッ!

 破断音が響き、玲司の身体が宙に浮く。

 非常階段は崩落し、風にあおられながら五階下まで落ちてガン! とけたたましい音を立て、転がった。

 玲司を支えたのは美空。今や宙ぶらりんの玲司は美空の手だけでぶら下がっているのだ。

 ひぃぃぃ!

 玲司は下を見て真っ青になる。

「くぅぅぅ! 何なのだ!? もぅ!」

 美空は真っ赤になって必死に耐える。しかし、玲司を引き上げるほどの力はない。

 絶体絶命の玲司は必死に考える。この高さを堕ちたら即死だ。でも引き上げも期待できない。どうしよう!?

「美空、ご主人様を下のフロアの入り口に放れる?」

 シアンがしっかりとした声で聞く。

「え?」

 美空は必死に耐えながら答える。

 横を見ると下の階の入口がぽっかりと開いている。あそこに振って、放ってもらうという事だろう。

「や、やってみるのだ」

 玲司の命がかかった局面である。美空はとっくに限界を超えながらも、必死に揺らし始める。

「ご、ごめんよぉ。たのむよぉ」

 もう玲司には美空の頑張りに頼るしかなかった。

「『いっせーのせ!』で放すのだ、わかった?」

 顔をゆがめ、真っ赤になりながら美空は言った。

「オッケー!」

 徐々に振幅が大きくなっていく。

 その時だった。

「あ、この階めがけて次のドローンが来るゾ!」

 シアンが絶望的な宣告をした。

 美空の眉がピクッと動いたが、美空はそのまま揺らし続けた。

「えっ!? どうしよう!?」

 揺らされながら玲司は涙目で困惑するが、どう考えても二人が助かる方法などなかった。

「はい、じゃぁ次で放るよ! 準備するのだ!」

「美空……」

「そんな顔するな。どっちみちもう逃げられんのだ。いっせーのぉー!」

 美空はひどく寂しそうな顔をして最後の腕を振った。

「せ!」「せ!」

 玲司の身体は宙を舞い、下のフロアの入り口めがけ飛んでいく。遠くなっていく美空、その美しい顔には寂しさの中に慈愛が満ちた微笑みが浮かんでいた。

「美空……」

 玲司は、決して失ってはならないものが手のひらをすり抜けていくさまに胸が切り裂かれた。

 直後、ズン! と、激しい衝撃音がビルを襲い、美空のいたフロアが吹き飛んだ。大地震のような強烈な揺れがフロアを襲う。

 ぐわぁ!

 玲司は瓦礫がバラバラと降ってくるフロアをゴロゴロと転がり、頭を抱えて必死に身を守る。

 容赦のない百目鬼の爆撃、それは死神となって今まさにかけがえのない命を刈り取っていく。

 なぜ? なぜ? なぜ?

 玲司に頭の中には疑問が吹き荒れていた。ただの高校生がなぜ爆撃にさらされねばならないのか、そのあまりに理不尽な事態に頭がパンクしそうだった。


 やがて静けさが訪れる。

 パラパラと破片が落ちる音だけが響いていた。

 恐る恐る目を開けてみると、美空がいたところには青空が広がり、ただ、爆煙が薄くなりながら空へとたなびいている。

「え? み、美空……?」

 非常階段ごと消えてしまった美空。危機的状況を頭では理解していても、目の当たりにした衝撃は大きすぎた。

「う、嘘だろ……。おい……」

 急いで起き上がり、身を乗り出して下を見れば、広範囲に瓦礫が飛び散り、山になっている。あの可愛い白いワンピースはどこにも見つからなかった。

 鼻の奥がツーンとして、脳の奥がチリッと焼け焦げる。

 もう玲司の未来予想図には美空の笑顔が大前提だった。これからもバカなことを言いながら起業したり冒険したり、頭をスパーンと叩かれたりしながらにぎやかな未来で笑いあう。もう玲司にとって未来とは美空との輝ける青春でしかなかった。

 だが、突きつけられた現実とのミスマッチに玲司の脳は焼け焦げる。

 美空の笑顔に彩られた未来予想図は玲司の生きる希望そのものだった。それが漆黒の闇に食い荒らされ、崩れ落ちていってしまう。

 あぁぁ……。

 ガックリとひざから崩れ落ちる玲司。

 うっ、うっ……、ぐぉぉぉ!

 怒りと悲しみでグチャグチャになった玲司は、壊れてしまったように涙をボタボタと落とし、床を殴る。

 可愛くて、頼もしくて、何度も命を救ってくれた女神のような美空。あの可愛い笑顔は損なわれてしまった。もう二度と見ることは叶わない。

「俺のせいだ。俺が百目鬼の話なんて聞いてたからだ! くぁぁぁ!」

 後悔が玲司を貫き、頭を抱え、瓦礫だらけの床に突っ伏した。

 美空は自分を助け、そして悪意に(たお)された。初めて人生を共にしたいと思ったかけがえのない女の子は、あっさりとこの世から消えていったのだった。

 瓦礫だらけのフロアには悲痛なうめき声が響き続けた。











23. 中指

 ひとしきり泣くと、玲司はふっ切れた表情ですくっと立ち上がる。

 そして、心配そうに見守っていたシアンに、無表情で聞いた。

「駐車場は地下かな?」

「そ、そうだね。あっちの方にも非常階段があるからそこから降りれば……」

 玲司はタッタッタと駆けだし、無言で地下を目指した。


        ◇


 どこまでも続く非常階段を一気に駆け下りた玲司は

「ハァハァハァ……。この中でハックできるのはどれ?」

 と、駐車している車たちを指さして聞く。

「うーん、これか、あれ。あいつでもいいゾ」

「じゃあ、このSUV開けて」

 玲司はゴツくて車高の高いアウトドア車を指さした。

「ほいきた!」

 シアンは目をつぶり、しばらく何かをぶつぶつ唱える。すると、そのゴツい車体の車内に明かりがともった。

 ピピッ! ブォォォォン! ガチャッ!

 玲司は無言でSUVに飛び乗ると、シアンに走り出し方を聞いてシフトを(ドライブ)に入れた。

「車で出てったらドローンに狙い撃ちされるゾ?」

 シアンは心配そうに聞く。

「狙い撃ち? 上等だ。返り討ちにしてやる」

 玲司は座った目で吐き捨てるように言った。

「生存確率0.3%だゾ? そんな無茶な行動割に合わないゾ 百目鬼と交渉するのが最善策。やめよ?」

 シアンはボンネットの上にペタリと座り、小首をかしげて制止する。

「『損得勘定ばっかりしてたら人生腐るぞ』ってパパが言ってたんだ。前が見えないからどいて」

 玲司はそう言いながらシートポジションを合わせる。

 敵のドローンが飛び交う中に飛び出すなど愚の骨頂だ。そんなことはわかっている。しかし、命を失うことになっても美空の仇を取らねばならなかった。白旗を上げて百目鬼の軍門に下ると言えば、生き残る可能性などいくらだってあるだろう。だがそうしたら美空はどうなるんだ? 無駄に命を落としたことになってしまう。そんなことは到底受け入れられないのだ。

 たとえ死んだとしても、美空の目指した『世界征服を企む悪いハッカーから人類を守る』ことを最後までやり遂げる。それ以外の選択はあり得なかった。

 玲司はキュッと口元を結び、覚悟を決めるとアクセルをグッと踏み込み、急発進する。

 キュロロロロ!

 タイヤの鳴く音が駐車場に響きわたる。

 あわわわわ。

 シアンは全く合理的でない玲司の蛮勇に首を傾げ、屋根にしがみついていた。

 エンジンを吹かし、出口のスロープを上がっていくと瓦礫が散乱している。

 奥歯をギリッと鳴らす玲司。

「ありゃりゃ、こりゃダメだゾ!」

 シアンは渋い顔をするが、玲司は構わず瓦礫に突っ込んでいく。

 ええっ!?

 驚くシアンをしり目に、玲司は瓦礫を吹き飛ばし、乗り越え、横の植木をバキバキと押し倒しながら道路に出た。

「ふはぁ、さすがご主人様! 凄いゾ!」

 シアンはボンネットの上でピョンピョンと跳ぶ。

 玲司は辺りをキョロキョロ見回し、

「ヨシ! あっちだな!」

 と、データセンターへ向けてハンドルを切ってアクセルを吹かした。

 キュキュキュ! ブォォォォン!

 派手な音を振りまきながらカッ飛んでいくSUV。上空を旋回しているドローンはその動きを見逃さない。

「ドローンに見つかったゾ!」

 心配そうに玲司を見るシアン。

「着弾までどれくらいだ?」

「うーん、あと五十五秒?」

「オッケー!」

 キュロロロロ!

 赤信号の交差点に強引に突っ込んで曲がっていく。

 キュキュ――――! パッパ――――!

 急ブレーキをかけさせられて怒った通行車がクラクションを鳴らすが、そんなこと気にも留めず、玲司はデータセンターへ向けてアクセルを踏み込んだ。

 上空から追いかけてくるドローン、逃げるSUV。最後の絶体絶命のデッドヒートが始まった。

 やがて植木の向こうに大穴が開いたデータセンターのビルが見えてくる。

 キュロロロロ!

 玲司は急ハンドルを切って植木に突っ込んでいく。

 バキバキ、メリメリと植木をなぎ倒し、押し潰し、SUVはクライマックスへ向かってひた走る。

 キキィ!

 ビルの大穴の前に急停車したSUV。

 玲司は車から飛び降りるとそのまま屋根によじ登った。

 振り返ると無人飛行機のドローンがまっすぐにこちらへ向かって飛んでくるのが見える。
 そして、その向こうの方には壊れて煙を上げているビル、美空の亡くなった場所だ。

 玲司はギリッと奥歯をかみ、そして目をつぶると大きく息をつく。これから一世一代の挑戦をする。勝機はごく一瞬。このタイミングを外せば死しかない。でも玲司は自信に満ちていた。美空がいたら『行けるのだ! やっちゃえ!』って言ってくれたはずなのだ。

 生身で兵器と向き合うなんてシアンだったら絶対選ばない方法だろう。しかし、美空の遺志を継ぐ玲司にはもうこのやり方しか思い浮かばなかった。

「百目鬼……。そのカメラで見てろ。最後に勝つのは俺だ!」

 玲司はドローンに向けて中指をビッと立てた。







24. Hello Cyan!

 いよいよ目前に迫ってきたドローン。ブォォォン! というプロペラ音が大きく響き渡る。
 玲司はピョンピョンと飛び跳ね、

「こっちだ! こい!」

 と、ドローンに向かって挑発した。

 玲司に照準を設定しているドローンは、迷うことなく時速数百キロでまっすぐに突っ込んでくる。三キロの爆弾を抱えて。

 近づくにつれその武骨で無機質な詳細が見えてくる。流線形でもなんでもなく単に黒い筒に板の翼をつけただけの雑なつくり。しかしその雑さが死神のように不気味さを醸し出していた。

 美空もコイツにやられてしまった。しかし、だからこそ、コイツで意趣返しをしてやるしかないのだ。

 玲司はじっとドローンとの距離を見定める。勝機は一瞬だ。全身の神経を研ぎ澄まし、ただその一瞬を待った。

 ぐんぐんと大きくなってくるドローン。

 そして、今まさに着弾しようとする寸前に玲司は、

「俺の勝ちだ!」

 そう言って前方に大きく飛び上がる。

 超高速で間近に迫ったドローン。

 しかし、玲司の身体はそのまま地面へと落ちていく。

 ドローンのカメラは目の前で落ちていく玲司の身体を捕捉できない。

 急に照準を見失ったドローンは、もう旋回も間に合わず、そのままSUVの上を通過してデータセンターへと突っ込んでいった。

 ズン!

 直後、衝撃が走り、データセンターは炎に包まれたのだった。

「ヤッター! ザマーミロ! バーカ! バーカ!」

 玲司は地面に転がりながら腹を抱えて笑う。飛ぶのが早すぎても遅すぎても殺される究極のチキンレースに玲司は勝ったのだ。これでシアンの本体は崩壊、百目鬼はただのハッカーに逆戻り。玲司はギリギリの勝負の末、ついにジャイアントキリングを達成したのだった。

 しかし……、玲司は突っ伏すと、動かなくなった。

「美空……、ごめんよぉ……」

 玲司は肩を揺らしながら泣く。

 こんなことのために命を失ってしまったかわいい少女、美空。それはもう取り返しのつかないトゲとなって心奥深くに突き刺さり、止むことのない悲鳴を生み続ける。

 シアンはそんな玲司の(かたわ)らに立ち、心配そうに見守っていた。玲司の悲しみを和らげるすべをシアンは知らない。ただ、見守るしかできなかった。


        ◇


「間抜けが! 何をやってるんだ!」

 サンフランシスコのタワマンで百目鬼が吠えた。画面にはエラーメッセージが怒涛のように流れている。

 拠点としていたデータセンターを自らのドローンで爆破するなど、まさに愚の骨頂だった。

 ドローンが最後に送ってきた、中指を立てる玲司の憎たらしい映像が画面に映り、百目鬼はブルブルと震える。そして、血相を変えてガン! とこぶしで机を殴った。

「どこまでも忌々しい奴だ、小僧め!」

 百目鬼は鬼のような形相でカタカタカタとものすごい勢いでキーボードを叩いていく。

 ブォン!

 不気味な電子音が響き、百目鬼は画面に近づくとじっとその表示を見つめた。

 やがて文字列が流れてくる。

  Running setup.py install for recog ... done
  Running setup.py install for absl ... done
  Running setup.py install for grp ... done
 Successfully installed cyan-0.1.9.1
 Hello Cyan!

 百目鬼はニヤッと笑う。そう、百目鬼は別のデータセンターへのシアンの移植に成功したのだった。

 煌めく夜景を背景に百目鬼は両手のこぶしをギュッと握り、そして、ふぅと大きく息をつく。

「小僧……、今度こそ息の根を止めてやる。ハッカーこそが地球を統べるのにふさわしいのだよ」

 そう言ってまるでピアニストのように軽やかにカタカタカタタン! とキーボードをたたき、悪魔の笑みを浮かべた。












25. 唇にキュッと

 玲司は美空の消えた瓦礫の山へと来ていた。

 とても生きているとは思えなかったが、それでも何か手掛かりが欲しかったのだ。

「あれ? こっちの方から電波が……」

 シアンがおずおずとひしゃげた非常階段の下を指さす。

「電波?」

 玲司は非常階段の下の瓦礫を掘っていく。

 すると何かがキラッと光った。

 玲司はドクンと心臓が激しく鼓動を打つのを感じる。

 そっと手をのばして拾い上げると、それは黒縁の眼鏡だった。そしてレンズにはべっとりと真っ赤な血のりが付き、生々しく悲劇を綴っている。

 あ、あわわわ……。

 玲司は手が震え、思わず眼鏡を落としてしまう。

 パリーン!

 レンズが砕け散り、高い音を奏でた。

 玲司の指には血が付き、その赤色が伝える凄惨な現実に、玲司は自分が壊れてしまうような衝撃で頭が割れそうになる。

 あわわわ……。

 よろよろとよろけ、ひしゃげた非常階段にもたれかかる玲司。

 屈託のないキラキラとした笑顔、あの頼もしかった小さな背中を思い出し、玲司のほほを涙が伝う。彼女は今、生々しい赤色となって玲司の指先を彩るばかりだった。

 くぅぅぅ……。

 玲司は血の付いた指先を大切に手のひらに包み、肩を揺らす。

 シアンは神妙に転がった眼鏡を眺め、そして両手を合わせた。

 その時だった、シアンがバッと体を起こし、叫ぶ。

「ご主人様! 太平洋の原潜からトマホークが発射されたゾ!」

「え……? データセンターは潰したはずだよね?」

 玲司は涙でグチャグチャになった顔で答える。

「うーん、そうなんだけどなぁ……」

 シアンは首をかしげる。

「で、そのトマホークって何? またミサイル?」

「それが……、多分核ミサイルじゃないかと」

 シアンは上目づかいで言いにくそうに答える。

「か、核!? えっ!? 東京に核攻撃ってこと?」

 玲司はあまりのことに飛び起きる。東京に核ミサイルなんて打ち込んだら一千万人が死んでしまう。

「く、狂ってる……」

 玲司は頭を抱えて口をポカンと開け、そのとんでもない事態をどう受け入れていいのか分からず言葉を失っていた。

 自分一人を殺すために一千万人を道連れにするなどもはや人間の所業ではない。

「逃げよう!」

 シアンは両手のこぶしを握って力説する。しかし、核爆弾であれば数十キロ圏内は即死なのだ。とても間に合うとは思えない。

「地下に逃げればまだ生き残れるかも!」

 シアンはそう言うが、玲司はゆっくりと首を振る。
 
「これ、東京湾の方へ移動したら被害減るかな?」

「うーん、誘導型だとするとご主人様を追いかけるので爆心地は動かせるかも……え? 逃げない……の?」

「こんな事態になってしまったのは俺の責任だ。少しでも被害を減らすしかない」

 玲司はそう言って首を振り、大きく息をつくと、ダッとSUVへと走った。

「ご主人様ぁ……」

 シアンは泣きそうな顔でついてくる。

 玲司は車に飛び乗るとエンジンをかけ、急発進した。

 キュロロロロ!

 SUVはタイヤを鳴らしながら最後の旅路へと加速していく。

「いいか、シアン。百目鬼にキッチリと責任を取らせろ!」

「うん……」

 シアンはおとなしく助手席に座りながら、ゆっくりとうなずいた。

「こんなハッカーが世界征服など絶対許すなよ。それが俺からの最後の命令だ」

「あっ! ご主人様、そこを右に行けば海底トンネルで生き残れるかも……」

 シアンは必死に生き残り策を提案する。

「シアン、もういいんだ。俺の目標はもう生き延びる事じゃないんだよ」

「ご主人様ぁ……」

 シアンはうつむいて動かなくなった。

「着弾まであとどんくらい?」

「二分三十二秒……」

 玲司はふぅ、と、ため息をつくと、首を振り、FMラジオのスイッチをタップした。車内にはポップなサウンドが響きわたる。玲司も好きなボカロ系の曲だった。

「最後までは聴けないな」

 玲司は苦笑し、あっけらかんとそう言うと、ゲートを強硬突破し、東京湾の埋め立ての最前線、ごみ集積場をただ南へとひた走る。

 見上げると青空の向こうに白煙を吹きながら何かが飛来しているのが見える。多くの人の命を奪う死神がいよいよ東京湾上空にまで達したのだ。

「シアン。いろいろありがとな。俺の命令、忘れんなよ」

 玲司はニッコリと笑ってシアンの方を向いた。

「うん、忘れないゾ!」

 涙をポロポロとこぼしながらシアンはうなずいた。

 自分の人生はもう終わる。いい人生だっただろうか?

 パパやママに愛されながら育ったものの、何だか出来損ないのような人生になってしまった。

 美空を失い、何百万人もの人たちを巻き添えにしてしまう。客観的に言えば最低だ。史上最も日本人を殺した人になってしまった。

 神様、もし、神様がいるならもう一度やり直させてください。今度こそうまくやります。本当です。

 そう願ったものの、もう一度やったら本当にうまくいくか自信が持てなかった。一体どうしたら正解だったのだろうか?

 ふぅ、と息をつくと、

 いっそのこと異世界転生してゴブリンを魔法でパーンって狩った方がいいかもしれない。

 はっはっは!

 最後の最後でバカげたことを考えてしまう。

 はぁ~あ。

 玲司はひとしきり笑うと、指先についた美空の血のりを眺め、そして、唇にキュッと塗り付ける。
 
「美空、これから会いに行くよ」

 玲司は最後の直線で思いっきりアクセルを吹かした。

 直後、関東一帯が激しい閃光の中に沈む。

 二百キロトンの核爆弾は広島に落ちた原爆の十倍以上のエネルギーを放出し、新たな太陽となり、都心部、川崎、横浜にいた数多(あまた)の命を一瞬にして焼き払った。

 玲司もあっという間に蒸発し、全てを焼き尽くす灼熱地獄の中、遺骨も残らずただガスとなって吹き飛んでいく。

 直後、白い繭のような衝撃波が関東一円へと広がっていった。衝撃波は次々とビルをなぎ倒し、熱線から逃れた者も押しつぶし、すりつぶし、一帯は一瞬にして巨大な集団墓地のような凄惨な光景と化していく。

 この日、東京は灰燼(かいじん)に帰したのだった。