「旦那様っ、すぐに姉を呼び戻して参ります」
「頼む、マーク」
「待って、マーク。これは違うのよ。アントニー様、違うんです」

 なんてことかしら。まさか、こんなことになっていたなんて。

「違うって、おれが殴ったか何かしてしまった……」
「だから、違うんです。その、これはわたし自身が……。そう、自業自得、自業自得です」

 こんなに恥ずかし思いをするのなら、あんなことやめておけばよかった。

 人間、悪いことは出来ないものよね。

 かなり気は進まなかったけど、事情を説明した。

 アントニーのせいではないということを、わかってもらわなければならない。

 しばらく前の話である。

「アーチャーの休憩所」のチョコレートクッキーの残りが三十枚ほどあった。ついつい食べてしまうので、ベッキーに頼んで隠してもらった。

 愚かなわたしが探し出せないよう、意外なところに隠しました、とベッキーは得意満面に報告してくれた。

 彼女の推測通り、わたしは愚かである。
 彼女が隠してくれたその日の夜のこと。わたしは、わたしに食べたがられているチョコレートクッキーの捜索を開始していた。

 厨房、自室、居間、どこにもない。隠した本人であるベッキーの部屋にも乗り込んでいった。そのときには、彼女はわたしのことを呆れるというよりかは軽蔑したに違いない。

 が、ベッキーは意地悪すぎた。どこにもなく、結局、お目当ての物は見つからなかった。その後、アントニーに離縁の話をされ、クッキーのことはすっかり忘れてしまった。

 そして、今朝のことである。

 伯父様がやって来る少し前、お腹がすいてきた。あれだけ朝食を食べたのにもかかわらずである。しかも、まだそんなに時間が経っているわけでもないのに。

 ガマンするのよ。自分にいいきかせ、気を紛らわせようと部屋の中をウロウロしてみた。

 そのとき、部屋の中で甘い香りがしていることに気がついた。具体的には、チョコレート、それからクッキーのにおいがする。

 においの出所を突き止めようと追ってみた。どうやら、クローゼット内の棚の上のような気がする。

 踏み台を持って来て、探ってみた。が、背伸びをしても届かない。さらに爪先だった。その瞬間、バランスを崩した。踏み台から落ちてしまった。

 お腹の赤ちゃん……。

 お腹だけは守らねばならない。

 というわけで、とっさに腕を下にして落ちた。幸運にも、床に衣服を積み重ねていた。それで衝撃はやわらいだ。

 腕が痛かったけど、大したことはないと思った。

 身を起こして立ち上がった際、袖が何かにひっかかった。「ビリッ」と音がしたけど、ちょっと破けた程度だと気にもとめなかった。

 時間がない。もう間もなく伯父様が来る。

 チョコレートクッキーは諦め、居間に向かった。

 という事情である。赤ちゃんのところだけは省き、語り終えた。。

「ですから、大したことはないのです。わたしの皮膚って、すぐに赤くなったり青くなったりするでしょう?ほら、動かしてもそんなに痛くありませんし」

 黙りこくっているアントニーやみんなを見回しつつ、腕を振ってみせた。

 そのとき、だれかがプッとふきだした。それから笑いはじめた。

 笑いはすぐに伝染する。すぐにみんなが笑いだした。

 アントニーも大笑いしている。

「さすがはユイだ。オールストン王国一の食いしん坊だ」
「奥様、最高です」
「ほんと、奥様が奥様でよかった」

 アントニーに続き、ベッキーと執事のブラッドが褒めてくれた。

 褒めてくれた、のよね?

 なんだかわからないけど、みんなが笑顔になってしあわせそうだから、まあいいわよね。


 その後、アントニーの執務室で彼と紅茶とチョコレートクッキーを楽しんだ。

 アントニーがクローゼット内の棚の上から取ってくれたのだ。

「アーチャーの休憩所」のチョコレートクッキーは最高だわ。

 心から堪能した。

「アントニー様。お体、よかったですね。カーリーの指示に従っていれば、すぐにでも元気になりますわ。これでアナベラさんを安心してお迎え出来ますね」

 ティーカップをローテーブルの上に置いてから、向かいの長椅子で紅茶を飲んでいるアントニーに声をかけた。

「アナベラさんも『アーチャーの休憩所』のスイーツがお好きだといいんですけど。もう間もなくリニューアルオープンするそうですから、喫茶室に連れて行ってあげて下さい」

 お皿の上には、もう一枚もクッキーは残っていない。それこそ、クッキーの欠片やカスすら落ちていない。

「叔父上、きみの方の叔父上のことだけど……。きみがこの屋敷から出て行った後、きみがアルフォード伯爵家の屋敷に戻れるようにしたかったんだ」

 アントニーは、唐突に言い始めた。

「叔父上について調べれば、埃の一つや二つ出てくるとは思ったんだ。しかし、埃どころか大きなゴミが次から次へと出てきた。すぐに関係機関に伝えて調査をしてもらい、王族に訴え出たわけだ。さっきも言った通り、アルフォード伯爵家はいったん王家が認めた管理人が入る。しかし、すべてに決着がついたら、その後はきみしだいだ。とりあえず、アルフォード伯爵家は存続するだろう」
「アントニー様、ありがとうございます。亡くなった両親もよろこんでいるはずです」

 心から彼に感謝した。

 伯爵という地位を剥奪されると諦めていた。この屋敷を去ったら、行くところがなくなると絶望していた。

 アントニーのお蔭で、どちらも残された。

 感謝だけでは足りないくらいだわ。