「最愛の女性(ひと)の命を奪おうと……」

 アントニーは、こんなときまでわたしに気を遣ってくれているのね。

 だけどね、アントニー。そんな気遣い、わたしにとっては苦しいだけよ。悲しいだけよ。かえっていたたまれないわ。

 だから、こんなときにまで気を遣わないで。

 お願いよ。

 彼の怒りに歪んだ顔を見ながら、心の中でお願いしていた。

「ハハハハッ!だったらいっそ、先にその最愛の妻を殺せばよかった。その後、おまえが絶望の内に死んでいくところを見ればよかったよ」

 そのとき、ぐったりしていたはずの伯父様が、アントニーの怒りを煽るようなことを言いだした。

「貴様っ!」

 アントニーは、さらに怒り狂った。怒りによって力が増大したのか、せっかく彼の右腕にすがりついていたのに、いとも簡単に振り払われてしまった。

 うしろによろめき、そのまま大理石の床に背中から倒れてしまいそうになった。

「おっと」

 そのわたしを、だれかが抱きとめてくれた。

 がっしりとした体格、それから分厚い胸板。

 その胸元から見上げると、カーリーが「強面」と表現した髭面がこちらを見下ろしている。

 視線が合うと、髭面の中に真っ白い歯が浮かんだ。

「カーリー、彼女を頼む」

 大熊みたいな彼にかわり、カーリーがわたしを支えてくれた。

「わたしに指図をしないで。言われなくってもわかっているんだから。あなたはあなたの仕事をしてちょうだい」
「へいへい、お嬢様」

 カーリーの容赦ない命令に、大熊さんは両肩をすくめてからアントニーに近づいた。

「公爵閣下。おれが見ぬふりを出来るのは、ここまでだ。悪いがこんな下種野郎、公爵閣下が何を言おうとどれだけ殴ろうと、ちっとも響かんし堪えやせん」

 大熊さんは、まるで小さな子どもたちの取っ組み合いのケンカを止めるかのようにアントニーから伯父様を奪い取ってしまった。

「クイン伯爵。あんたの自白、全部きかせてもらいましたよ。ああ、申し遅れました。おれは、王立警察の警視正クリフ・レッドフィールド。これから、あんたとは長い付き合いになる。よろしくな」

 大熊さんは、伯父様の首根っこをつかんで軽々と宙ずりにしてからにんまりと笑った。

 そう。彼こそがカーリーの婚約者なのよね。

 赤毛と赤髭は、大きな大きなレッド・ベアーのぬいぐるみそのもの。思わず、抱きしめたくなる。

 じつは、カーリーと大熊さんと大熊さんの部下たちは、居間の続き部屋に隠れていたのである。そして、わたしたちの会話をすべてきいていた。

 だからこそ、アントニーとわたしは、わざと伯父様を挑発した。

 伯父様が自分で白状するようにけしかけたのである。

 大熊さんの部下たちが、すっかりおとなしくなった伯父様を連行していった。

「クイン伯爵にはああ言ったが、先程の奴の自供は役に立たない。だが、これから徹底的に調査と取り調べをする。かならずや、相応以上の報いを受けさせる」

 大熊さんの声がやさしくなった。髭面の表情も、先程よりかはやさしくなっている。

「公爵閣下、悪かったな。だが、あれ以上の暴力を見過ごせば……」
「わかっています、警視正」

 アントニーも、いつものやさしくて穏やかな彼に戻っている。

 大熊さんは、そのアントニーにこれ以上の言葉は必要ないとばかりに彼の肩をポンと叩いた。

「クリフと呼んでくれ、公爵閣下。警視正なんざ、どこの強面のじじい警官と思われているのかって勘繰ってしまうんでな」

 大熊さんがカーリーと同じようなことを言ったので、アントニーと顔を見合わせて笑ってしまった。

「クリフ、ほんとうにありがとう」
「いやいや、これがおれの職務だからな。よければ、今度飲みに行こう」
「ええ、よろこんで」

 大熊さんは、カーリーを促した。

「ユイ。あのこと、アントニーに告げなさいよ」

 カーリーは、わたしからはなれるまえにそう耳元にささやいた。

 そして彼女は、わたしが何か言う前に大熊さんと居間を出て行ってしまった。 


 居間の前にベッキーやマークやモーリスたちパウエル家の使用人たちが集まってきている。

「みんな、心配をかけてすまなかった。すべて片付いたので、このまま作業に戻って欲しい。落ち着いたら、全員に詳しく話そうと思っている」

 アントニーが声をかけると、使用人たちはホッとした表情になった。

「奥様、大丈夫ですか?」

 突然、ベッキーが叫んだ。その叫び声に驚いてしまった。

「まあ、奥様」
「奥様」

 他の使用人たちも、わたしを見て驚きの表情を浮かべている。

「ユイッ、なんてことだ。おれがきみを、きみを傷つけてしまった……」

 こちらを向いたアントニーは、わたしの腕を見て絶句した。

 そのときになってはじめて、そのことに気がついた。

 シャツの左の袖が破け、そこから見えている二の腕が真っ赤になっているということに……。