ベッキーが来月のことを言ってくるということは、彼はまだこの屋敷の使用人たちにわたしたちの離縁の話をしていないのね。

 わたしの口から伝えるべきことじゃない。こういうことは、夫であり当主であるアントニーがちゃんと伝えるべきこと。

 だから、ベッキーに話をあわせることにした。

「こんな話をしたら、久しぶりに『アーチャーの休憩所』のパウンドケーキが食べたくなってきたわ」
「ほんとうですね、奥様。それでしたら、買い物担当のマークに頼んでみます」
「ええ、楽しみにしているわ」

『アーチャーの休憩所』は、このオールストン王国の王都の庶民の間で人気を誇るスイーツのお店である。
 お持ちかえりはもちろんのこと、喫茶室もあってそこで食べることも出来る。

 紅茶がまた美味しい。この大陸だけでなく、遠い大陸の茶葉もあって種類も豊富である。

 現在は喫茶室を改装中で、お持ちかえりのみになっている。

 庶民のお店だけど、わたしは子どもの頃から大ファンだし、上流階級の中でも隠れファンは多い。

「奥様、朝食の準備をいたしますね。あの、この前の診療はいかがでしたか?」

 ベッキーは寝台を整える手を止め、尋ねてきた。

「……。ええ、ええ。大したことはなかったわ。ここのところ暑いでしょう?軽い暑気あたり、ということよ」

 まさかほんとうのことを告げるわけにはいかない。

 思わず、答えに詰まってしまった。

 何事にも鋭い彼女である。気付かれてしまったかしら?

「そうでしたか。その程度でよかったです。ふふふっ、もしかしてって思ったんですけど」

 ベッキーは、ドレッサーで髪をとかしているわたしの腹部に視線を走らせた。

「ですが、ほんとうに大したことがなくって安心いたしました」

 彼女は視線(それ)をわたしの瞳へと戻してから、やわらかい笑みを浮かべた。それから、ベッドメイキングの続きに戻った。

 思わず腹部に手を当ててしまった。

 彼女もずっと期待してくれている。

 なのに、わたしはそれに応えられない。それどころか、裏切っている気がする。

 それを思うたび、罪悪感に苛まれてしまう。

 アントニーとわたしは、最初からある程度の期間夫婦でいるという、いわば期間限定というか契約結婚というか、とにかく離縁すること前提で夫婦生活をスタートしている。

 このことは、二人だけの秘密である。その為、当然表向きはちゃんとした夫婦を装っている。

 部屋は、同室であって同室ではない。アントニーが主寝室を使い、わたしは続きの間を使っている。

 彼は、もともと病を抱えている。どういう病なのか、彼は詳しく教えてはくれない。処方された薬を、毎日飲み続けている。

 そういうわけで、当然夫婦であれば行われるはずの夜の営み以外は、それぞれの部屋の寝台で眠るというのが暗黙の了解になっている。
 すくなくとも、使用人たちはそう思い込んでいる。

 ほんとうは、わたしたちが別の部屋で眠っているのは彼の病が理由ではないのだけれど。

 それはともかく、アントニーはアナベラというご令嬢に執心しているわりには、一度たりとも外泊をしたことがない。

 彼は、真面目で責任感が人一倍強い。公爵という立場が、彼を厳格にしているのかもしれない。

 昨夜もそうだった。アナベラのところに行ってくると言って出て行ったけれど、常識的な時間帯に戻ってきた。わたしがまだ寝台に寝転ぶ前だった。

 妻がありながら他の女性が好きで、その女性のもとに通いつめている。

 そんなことが知れ渡りでもすれば、パウエル公爵家の家名を穢すことになる。

 彼は、それを怖れているに違いない。

 妻であるわたしが恥をかく、ということよりも。

 当然といえば当然のことだけど。