「マーク、ここで停めて」
「えっ、は?」
「いいから、お願い」
「は、はい」

 馬車は急停止した。

「馬か馬車が調子が悪いふりをしてちょうだい。すこしの間でいいから、伯父様を引き止めてほしいの。なんなら、あなた自身が具合が悪いようにしてくれてもいいわ」
「へっ?あっ、いえ、奥様?」
「頼んだわよ」
「お、奥様ーっ!」

 馬車の扉を少しだけ開けて滑るように降り、スカートをたくし上げてウエストにはさみこんだ。それから、すぐ目の前にある膝上位の高さの茂みをジャンプして飛び越えた。

 マークの困惑の色濃い呼びかけを背中でききつつ、駆けだした。

 向かうは、アントニーの執務室。

 幼い頃から知り尽くしているパウエル公爵家の敷地である。

 伯父がアントニーと顔を合せるよりもはやく、先回りしてアントニーに会わなければならない。

 庭の木々の間を縫い、茂みを飛び越えたり突き進んだりしながら、アントニーの執務室の窓の前までやってきた。

 なんてこと。窓が閉まっている。この暑さである。アントニーが室内にいるとすれば、いくらなんでも窓を開けないとやっていられないはず。

 ああ、神様。どうかアントニーがまだ伯父様に会っていませんように。アントニー、お願いよ。執務室にいてちょうだい。

 神とアントニーに祈らずにはいられない。

 茂みがあるのもなんのそのである。ガサガサと音を立てつつ茂みをかき分け、窓のすぐ近くにまで迫った。そして、手を伸ばして窓ガラスを叩こうとした。

 汗が目に入った。

 そこではじめて、自分が汗まみれになっていることを自覚した。

 それはそうよね。直射日光を浴びながら、思いっきり全速力で駆け続けたのである。

 全身、水浴びをしたみたいになっているわ。

 シャツもスカートも肌にぴったりくっついている。

 手で目の辺りの汗を拭うと、あらためて窓ガラスへと手を伸ばした。

 拳を作って窓ガラスを叩こうとした瞬間、その窓ガラスが勢いよく開いたのでびっくりした。

 すぐ目の前に現れたアントニーと、窓越しに「バーンッ」という感じで視線が合った。

 窓の内と外に佇む男女。

 これが恋愛小説なら、内側にご令嬢、外に王子とか貴公子とかが佇み、愛をささやきあったり自分たちに降りかかる不幸を嘆きあったりする王道場面でしょう。

「う、うわああああっ!」
「きゃあっ」

 だけど、現実は違った。

 アントニーは窓を開けたらわたしがいるので驚いて悲鳴を上げ、わたしはその彼の悲鳴に驚いて悲鳴をあげてしまった。

「しーっ!」

 一緒になって大騒ぎをしている場合じゃない。

 口の前に指を一本立て、彼に静かにするよう合図を送った。

 アントニーは心底驚いたらしい。心臓に手を置きつつコクコクとうなずいた。

「アントニー様、伯父様にお会いになりましたか?」
「いいや。伯父上が来ているの?そういえば、馬車の音がしたような気がする」

 窓越しに、かぎりなく小さな声で会話する。

 一瞬、先日の執務室でのことが頭をよぎった。

 あれ以降、どちらも何事もなかったかのように振る舞っている。あまりにも何事もなかったかのようなふりがうますぎて、アントニーは何も感じていないのかと勘繰ってしまうほどである。

 すくなくとも、わたしはかなり意識してしまっている。何もなかったようなふりをするのもぎごちないに違いない。

 だけど、いまは違う。

 執務室でのことを気にしたり、意識しすぎたりしている場合ではない。

「アントニー様、すぐにマークのお姉様に会いたいのです」
「えっ、急に何?」

 ええ。アントニー、わかっているわ。あなたが驚くのもムリはない。

 だけどあなたは、いいえ、わたしたちは行かなければならないの。

「伯父様の用事より、マークのお姉様に会うことの方が有意義で大切なのです」
「なんだかミステリーチックだな。だけど、面白そうだ。きみがそんなことを言うときって、たいてい面白いことが起こるからね」

 彼は、美貌ににんまりと笑みを浮かべた。

「じゃあ、すぐに準備をするよ」

 アントニー。あなた、寝室に戻るつもりね。

「アントニー様、待ってください。椅子の背にかかっている紺色のジャケット、とっても素敵ですわ。それで充分です。このまま参りましょう。伯父様に会ったら、ご挨拶や愛想の一つも言わないといけません。面倒くさいですし、一刻もはやくマークのお姉様に会いたいのです」
「わかったよ。きみがそう言うのならそうしよう」

 とはいえ、エントランスを通るか、食堂や居間にあるガラス扉からでないと外に出ることが出来ない。いずれのルートを選んでも、すでにエントランスにいるであろう伯父様と鉢合わせしてしまう。

 さあ、どうやってアントニーを外へ導いたらいいかしら?