気がついたら、アントニーの横顔を盗み見てしまっている。

 彼もまた、ローテーブルをはさんだ向こう側の長椅子でうつ伏せになって本を読んでいる。集中しているその横顔がまた素敵である。ときおりモゾモゾと形のいい唇が動いているのは、小説の登場人物に感情移入してしまって悪態をついたり罵倒したり励ましや祈りの言葉を発しているせいである。

「なんだい?」

 彼に尋ねられ、また彼の横顔を見つめていることに気がついた。

 彼は本を閉じると身を起こし、長椅子に座り直した。読んだばかりの本を、読了済みの本の上に重ねる。それから、まだ読んでいない本を手に取った。

「ごめんなさい。何でもないの」

 そうごまかすしかない。

「アントニー様、あの、彼女のところに行ってあげなくっていいのかしら?」

 え?

 自分でも驚いてしまった。

 どうしてそんなことを尋ねてしまったのか、自分でもわからない。っていうか、信じられない。

「彼女?」

 彼は、目を丸くした。

「あ、ああ、彼女、ね。いいんだ」

 彼は、それだけ言うと口を閉じた。

 答えたくないというわけね。

「ごめんなさい。ここのところ、わたしがあなたを連れまわしたり付き合わせてしまっているから」

 気まずすぎる。

 わたしのバカ。なんてことを尋ねてしまったのよ。

 口の外に出てしまった言葉を、いまさらひっこめることは出来ない。

「そんなことはないっ」

 そのとき、彼が怒鳴った。てっきり非難されているのかと思ってしまった。

「すまない。ユイ、そんなことはないよ。おれだってきみに付き合ってもらっている。なんだか、きみといると肉体的に調子がいいし、精神的にも落ち着いていられる。なにより、楽しいししあわせなんだ」

 彼はわたしをまっすぐ見つめつつ、何のためらいもなく言った。

 なんですって?

 意外すぎるその言葉の数々に戸惑いを禁じ得ない。

 どうしてしあわせなの?愛してもいないわたしといっしょにいるのに?

 ああ、なるほど。罪悪感ね。生真面目な彼のことですもの。罪悪感からそう言わせているのね。

 冷静でいて、わたし。動揺しちゃダメ。ポーカーフェイスを保つのよ。

 アントニーはわたしに気を遣ってくれているだけよ。そう。いまのは社交辞令的に言ってくれただけ。

 だから、過度な期待をしちゃダメなのよ。希望を持っちゃダメ。

 気分を落ち着ける為、カップに手を伸ばした。

 指を取っ手に絡ませようとして、カップが空になっていることに気がついた。

 慌ててポットの取っ手をつかんだけれど、ポットも空っぽになっている。

「まぁ、もうミルクがなくなっているわ」

 自分の声が不気味なほどソプラノボイスになっているのを感じた。

「おかわりを取って来ます」

 落ち着きなさい。平常心よ。

 何度も何度も言いきかせる。

 ポットの取っ手をつかむのを二度失敗し、ようやくそれをつかむことが出来た。長椅子から立ち上がった拍子に、ローテーブルに左膝をぶつけてしまった。

 もうっ!何をやっているの?

 ますます焦ってしまう。

 何とか立ち上がり、ポットを胸元に抱えて体を執務室の扉の方へと向けた。

 ここから出なくては……。

 そればかりが頭の中にあった。だから、彼がすぐ目の前に立っていることに気がつかなかった。

 アントニーは、行く手をはばむかのように立っている。

「ユイ、いいんだ。ミルクはもういい」

 彼の美貌に浮かんでいるのは、腹が立つほどやさしさにあふれている表情である。

「ここにいてくれ。おれの側にいてほしい」

 彼の両手が伸びてくる。

 思わず半歩あとずさってしまい、長椅子の肘掛けが右太腿の後ろ側にあたってしまった。その分、彼が半歩踏みだしてきた。

 逃げようがないわ。

 どうして逃げるの?

 彼から逃げる?

 わたしに迫りつつある彼の行動も不可解だけど、その彼から逃げようとしている自分の行動もわからない。

 どうしていいかわからない。

 頭の中が真っ白になってしまっている。

「ユイ、逃げないでくれ。おれたちは、いまはまだ夫婦だろう?」

 彼に両肩をつかまれた拍子に、両腕からポットがすべり落ちてしまった。絨毯の上に蓋が外れた状態で転がってしまう。

 ポットが割れなくてよかった。

 なぜかそう思った。

 ポットの無事を確認出来たとき、アントニーの唇がわたしのそれに重なっていた。