するといつもの優しい声が私を呼ぶ。ゆっくり顔をあげれば困ったように笑う表情が見え、その瞬間強張っていた体から一気に力が抜けていく。

「じゃあ」

 そして自然と彼の腕に手を伸ばそうとした。

「ごめんね」

 しかし返答は私の想像とはまるで違っていた。

「父から婚約は解消するって聞いてる。だからもう僕たち赤の他人だよね」

 彼の服をかすめた右手は行き場をなくし、遠のく背中を見つめながらへなへなと地面に座り込む。呼吸がだんだんと浅くなり苦しくなっていく胸を押さえながら、知らぬ間にこぼれ落ちていた涙が土の中に吸い込まれていった。


 しばらく動けずに厚い前髪が視界を遮っていると、突然誰かに腕を力強く引っ張り上げられ、放心状態のまま近くの長椅子に座らせられる。

「せっかくの良い着物が台無しだ」

 誰かが私の耳元で鼓膜を刺激した。

 昨夜の雨で濡れた地面が綺麗な着物を汚したが、瞳から流れ続ける涙を拭う気力もない私は頭の中が真っ白で何も考えることができない。ごつごつとした手が裾の泥をはらってくれているのが見えても相手の顔を確認する余裕すらなかった。

「結行こう。立てるか?」

 しばらくして父の声がした。いつの間にか先ほどまでいた人は姿を消していて、温かい手に支えられながら枯れた涙の跡を頬に残したままふらふらと立ち上がる。痛々しい視線に見られているのを感じつつ、そんな自分がなんだかみじめに思えた。