手の甲から伝わるヘニング様――グラナック卿の唇の感触と熱量に圧倒されて、むず痒い気持ちになる。
 時を越えてグラナック卿と再会した感動で胸が熱くなり、涙が溢れそうになる。
 でも私は言わなければならない。

「グラナック卿。貴女はソウェル王国一の忠国の騎士です。でもどうか祖国を取り戻そうと考えないで下さい。私は貴方と再び巡り会えただけで満足しているのです。確かに私達の亡き後、ソウェル王国はクィルズ帝国の支配下に置かれました。遅かれ早かれ、いずれはそうなっていたのです」

 前世でクィルズ帝国から王子と私の婚姻を持ちかけられた時には、既に帝国はソウェル王国以外の周辺に侵攻して領土を広げていた。あの頃の帝国はまだまだ小さな国だったが、やがて強大な国となった時、ソウェル王国とも戦火を交えるだろうと誰もが考えていた。
 そんな中もたらされたソウェル王国との友好同盟に、私の両親である国王と王妃は不信感を持っていたが、重臣達――おそらく、重臣の中にも帝国と繋がっている者がいたのだろう。の説得もあって、両親は私と王子の結婚を決めたのであった。

「私はまた貴方を喪いたくないのです。ようやく前世を思い出して、やっと貴方と添い遂げられるというのに……」
「我が姫……」
「それなのに帝国に謀叛を起こしたら、また前世と同じ様に傷つき、離れ離れになってしまうかもしれません。今度こそ……会えないかもしれません……」
「申し訳ございません。姫の気持ちを何も考えておらず、勝手な事を申しました」
「いいのです。それよりもグラナック卿……。いえ、ヘニング様。どうか頭を上げて下さい。今の貴方は私の騎士ではありません。貴方は私の夫です。夫が妻である私に首を垂れる必要はありません」

 今の私達は帝国に忠誠を誓った騎士であり、シュトローマ公爵でもあるヘニング様とヘニング様に降嫁された帝国の末姫のエレン。
 前世のソウェル王国の忠国の騎士であるグラナック卿とソウェル王国の姫であるヘンリエッタではない。
 帝国では嫁いだ妻は夫の所有物として扱われる。夫であるヘニング様が妻である私に頭を下げる必要は無い。

「そうでした。もう何も気兼ねする必要はありません」

 ヘニング様は立ち上がると、私の身体を抱き締める。ヘニング様の纏うナルキッソスの香りに包まれると、かつてのヘンリエッタとグラナック卿に戻った様な錯覚さえ覚える。

「ヘニング様……昼間はすみません。離縁したいと言って」
「そうだよ。あの時は本気で焦ったんだ。ようやく手に入れたエレンを失うと思ったからね。でも、それがきっかけで君が前世の記憶を取り戻したと気付けた。このままだと屋敷を飛び出して俺を探しに行きそうだったから香水を送ったんだ。早く俺に気づいて欲しかったし、二人の思い出の品を持っていて欲しかったから」

 いつものヘニング様の話し方に戻ると、私の頭をぐっと押さえる。身体中を包み込み様なナルキッソスの優しい香り。前世を思い出せる香水。失われた過去と祖国を思い出して、今度こそ涙が零れそうになる。

「ヘニング様、今世こそ私は貴方と幸せになりたいのです。誰にも邪魔されずに今度こそ……。前世では諦めざるを得なかった恋を、今世でもう一度やり直しましょう。これはその花です」

 私はずっと持っていたナルキッソスの一輪挿しをヘニング様に渡す。
 ジュナが屋敷の温室から摘んで来てくれたナルキッソスは、時間が経って少し萎れていた。ただ茎はまだまだ元気なので、水を入れた花瓶に生ければ、すぐに元に戻るだろう。

「ナルキッソスの花言葉には『再生』や『復活』という意味もあるそうです。私達にピッタリだと思いませんか? 前世の記憶を持ったまま『復活』して、前世では『報われなかった愛』を『再生』しようとしている……。まるでナルキッソスの花みたいです」
「そうだね」

 ヘニング様がナルキッソスの花を受け取ると、緊張感が抜けたのと歩き疲れたのもあって、膝から力が抜けてしまう。
 その場に座り込んでしまうと、「どうしたの!?」と顔を青くして、ヘニング様が慌て始める。
 その顔があまりにもおかしくて、つい小さく声を上げて笑ってしまったのだった。

「すみません。疲れて足が動かなくなってしまいました。先に部屋に戻って下さい。ジュナを呼んで後から行きます」
「俺に付き合わせたからだよね……。ごめん」

 元の話し方に戻って項垂れるヘニング様に「大丈夫です」と返すものの、無理して歩いていた事もあって、思うように足に力が入らなかった。
 少し休んだら歩けると思うが、しばらくはこの場から立ち上がる事さえ出来ないだろう。
 すると、ヘニング様は地面に片膝を付くと、軽々と私の身体を持ち上げたのであった。

「これなら一緒に戻れるよね。重いなんて思わないから安心して……。
 前世でもこうして寝てしまった姫を抱き上げて、部屋までお連れしました。あの頃から私が姫を重いと思った事は一度もありません」

 またグラナック卿の口調に戻ったヘニング様に顔が赤くなってしまう。
 ヘニング様がグラナック卿と分かっても、やはりヘニング様の顔でグラナック卿の話し方をされるとどこか照れてしまう。
 お互いに自分の前世について打ち明け合った以上、今後はヘニング様としての今世のグラナック卿と、忠騎士だった前世のグラナック卿の二つの顔が姿を現すのだろう。
 どちらも同じ人物だと分かってはいても、全くタイプの違う二つの姿に、しばらくは慣れそうになかった。

「あの、ヘニング様とグラナック卿で話し方が違うのは何か理由があるのですか?」
「ヘニングとしての話し方は、皇帝に怪しまれずに近づき、気に入られる為に覚えたものです。仕方なくと言えばいいのか……」

 屋敷に戻りながら、ヘニング様は大きく溜め息を吐く。
 もしかして、皇帝に近づくまで相当な苦労をしたのかもしれない。

「そうなの!? でもそれもいいかもしれません。だって、グラナック卿はいつも堅苦しくて、寡黙で仏頂面で、何を考えているか分からない時があったから……!」
「姫はそう思っていたのですね」

 グラナック卿と同じ微笑を浮かべたヘニング様に「もう!」と返す。
 ヘニング様はひとしきり笑うと、やがてグラナック卿ともヘニング様とも取れる顔になったのだった。

「エレン」

 そうして一拍置いた後に、ヘニング様はそっと口を開いたのであった。

「今宵、俺の妻になってくれる?
 そして……前世での私との約束を果たしてくれますね?」

 私が頷いたのも束の間、すぐにヘニング様に唇を塞がれてしまう。空を見上げると、いつの間にか空には夜の帳が下りて、三日月が昇っていた。
 細い三日月の明かりに照らされる中、ようやく私達は前世の約束を果たしたのであった。