「マリオ、ちょっと待って。葡萄酒をグラスに注ぐから」
「いや、瓶ごとくれないか。思いっきり飲みたい気分だ」

 はあ、そうですか。

 だったら、二本持って来るべきだったわね。

 仕方がない。自分の分は諦めよう。

「さあ、どうぞ」

 寝台に近づき、彼の前に立つと瓶を差し出した。

 コルクはあらかじめ抜いておいた。

 彼は親指一本でコルクを抜き、「ありがとう」とつぶやくように言ってからいっきにあおった。

「おれがヴェッキオ皇国の皇帝の子かもしれないなんて、信じられるかい?すくなくとも、上流階級のだれかの血を継いでいるなんて、かんがえられるかい?」
「ええ、信じられるわ。あなたは、スマートだしやさしいし穏やかだわ。他の暗殺者、っていうよりかは他の男性とまったく違う。暗殺者としてターゲットをだます為に演技をしているのだとしても、あなたのその風格や品は、上流階級そのものよ」

 お世辞でもごまかしでもない。

「そう言われてみれば、そんな風に見えたり感じたりするかしら?」

 というものでもない。

「正直なところ、あなたが暗殺者だという方がしっくりこないわ」

 とはいえ、腕はいいんだけど。

 彼を看病していたときに使っていた椅子をひっぱってきて、彼の真正面に置いた。

 腕を伸ばせば、ナイフでひと突き出来るだけの距離をあけた位置である。

「たしかに、おれは暗殺者としてはいろいろマズいところがある」
「そういう意味じゃないわよ。腕はいいけど、その、やさしいというか非情になりきれないというか……」
「わかっている。自分が一番よくわかっている。この前、言っただろう?暗殺者として、依頼を受けてだれとも知らない非力な人を殺すのは性に合わないって。だから、ターゲットが強い奴という依頼だけ受けるようにしていたってね」
「ええ。だけど、わたしは違ったのよね。こんなに非力な女性なのに、わたしだけ特別だったのよね?」
「非力?笑ってしまうよ。結局、いつも通りさ。強い奴だったからね」

 にらみつけると、彼はおっかなさそうに首をすくめた。

 それが可愛くって、つい口許が緩んでしまった。

「それで、あなたは子どものとき、何もきかされなかったの?」
「師匠から?あのろくでなしの爺さんからきいたのは、『おまえは奴隷として売られていて買ってやったんだ。だから、その分体で稼いでわしに楽をさせろ』ということだ」

 まあ、それはそうよね。そもそも、そういう輩はそんな風に貶め尊厳を奪ってこき使うのよ。

 わたし自身の前世でもそうだった。ろくでなしの父親によって娼館に売られ、貶められ尊厳を奪われた。

 小さいころからそんなことを言われ続ければ、どんな人だって自分は最底辺の人間だって思ってしまう。

 それどころか、人間ですらないって信じ込んでしまう。

「ガキのころは……」

 彼は、何か言いかけて口をつぐんでしまった。視線をそらし、葡萄酒の瓶を傾ける。

「人を殺したり傷つけたりなんてこと、なかなか出来なかった。そのスキルを持っていたとしてもだ。だから、師匠は……」

 彼は、また口を閉ざしてしまった。

 あきらかに言い淀んでいる。言うか言わないか、逡巡している。

 彼が言わんとしていることは、だいたい予想がつく。

「いいのよ、マリオ。言いたくなければ、言わなくってもいいの」

 だから、手を伸ばしてから彼の瓶を握っていない方の腕をさすった。

「いや……。アヤ、きみにはきいてほしい。いままでだれにも話さなかったことだ。いや、話せなかった。話せるような奴がいなかったというのもあるけど……」

 そして、彼はわたしと視線をしっかり合わせてきた。

「おれはガキのころ、老若男女を問わず抱かれたり弄ばれていた。そういう穢れた男さ。見下げ果てた野郎だろう?」

 彼は、いっきにそう告げた。わたしから視線をそらし、石床にそれを落とした。

「アヤ、ごめん。きみにはこんなこと関係ないのに、つまらないことをきかせてしまった。軽蔑してもらってもいいし、汚らわしいと思ってくれてもいい。どちらも事実だから。それに、おれは忌み子だし」

 彼は、石床に視線を落としたままそれを上げようとしない。わたしをぜったいに見ようとしない。

 彼の腕をさすり続けながら、出来るだけやさしい表情と声になるよう心掛けた。

「マリオ、その話をどうしてわたしにしてくれたの?」
「正直なところわからない。フェアじゃないと思ったから?いや、違う。ただきみにきいてもらいたくなったから?いや、それも違う。おれってば、何を言っているんだ……」

 視線は合わないままである。

 彼のワイルドな美形には、苦笑とも困っているともいえる笑みが浮かんでいる。