アヤはともかく、わたしは夜目がきく。

 なにせ、アヤに憑依する前はいろんなことをやっていたんですもの。その中のスキルの一つに、真っ暗な場所でもある程度視覚することが出来るというものがある。

 雑然、なんてなまやさしい。屋敷内は、荒れに荒れている。大分前から、この屋敷は機能していなかったに違いない。

 おそらく、ペルティ家所縁の人や貴族たちは、彼らとの交流をやめていたのでしょう。出入りの商人などは、ブルーノがごまかしていたに違いない。

 それにしても、彼ったら食料はどうしていたのかしら?

 そう疑問がわいた瞬間、あることを想像してさらに吐き気を催した。

 ダメよダメ。そんなグロイ想像はなし。

 いまは、わたしたちを守ることが先決よ。それに集中すべきよ。

 すでに策は決めてある。行動を起こすのも問題はない。

 乗馬ズボンの背中側にはさんでいる軍用のナイフを抜くのに、なんの躊躇いもない。

 ブルーノは、すぐ前を奥へ向かって歩いている。

 おそらく、厨房か浴室へわたしを連れて行くつもりなのね。

 厨房や浴室は、獲物を殺してその死体を始末しやすいからである。

 歩く速度を落とし、トランクは埃とゴミとわけのわからないシミに覆われている大理石の床の上にそっと置いた。

 同時に、軍用ナイフを握りなおした。

 そのタイミングで、不意に彼の歩みが遅くなった。

 わたしが気配を消した瞬間である。

 殺人を重ねると、不思議とそういう感覚がすぐれてくるらしい。

 彼がこちらを振り向く素振りをみせたその瞬間、わたしは体全体を思いきり沈めつつ右手をひらめかせた。

 軍用のナイフを握るその手を、である。

「ギャッ!」

 尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が上がったと同時に、血が飛び散った。

 そのときには、すでに手首を返している。さらにもう一閃。手首をしならせるようにして軍用ナイフをひらめかせた。

 つぎは悲鳴はおこらなかったが、血が勢いよく飛び散った。

 が、その後が凄惨をきわめた。ブルーノが大理石の床の上をのたうちまわりはじめた。口からよだれと悲鳴をだだもれにし、足首からは血をだだもれにしつつ。

「痛い、痛いよ。痛い痛い」

 そりゃあ痛いでしょう。なにせ、両足首の健を切断したんだから。

 軍用ナイフに付着した彼の血は、足許に落ちていた布で拭った。

 元はだれかの衣服の一部だったであろう布である。

 床の上には、そういう布が散らばっている。ブルーノに裁縫とかパッチワークの趣味がないかぎり、彼が殺害した家族や使用人たちが着用していた衣服を、彼がびりびりに破いたか何かしたに違いない。

 とんでもない凶行だわ。

 いったい、彼はどれだけの人を殺害したの?

 想像や推測する気にもならない。

 アヤとわたしも、その被害者の一人になるはずだった。それを回避出来ただけでも幸運だわ。

 他の多くの被害者には申し訳ないけれど、アヤもわたしも二度と死にたくないし、死ぬつもりもない。

 だから、こうするしかなかった。

 本来なら、殺した方がよかったのかしら?殺害された多くの人たちは、そう望んだでしょうから。

 だけど、やはりそんなことはアヤが許さないわね。

 軍用ナイフを鞘に戻し、あらためて大理石の床上でのたうちまわっている美形を見下ろした。

 このまま放っておくのだけれど、だれにも見つからなかったらきっと彼は死ぬわね。いまここでとどめをさすつもりはないけど、だれかに知らせてやりつもりもない。

 当然、わたし自身が止血してやるとか介抱してやるとかもない。

 まっ、運がよければ命は助かる。

 ただ、捕まって多くの命を奪った報いを受けるだけのこと。

 彼自身の父親である伯爵、執事や使用人たち、それから馬たち。ことごとく彼に殺され、おそらくは血をすすられ、肉は食べられた。

 このような凶行は、この国でもそうそう起こることではない。

 いずれにせよ、この美形の命運は尽きたってことかしら?

 もっとも、どこかの目立ちたがりの弁護人がしゃしゃり出てきて、『この男は精神を病んでいるんです。だから、凶行も仕方がないのです』なーんて言い出すかもしれないけど。

 そうなったとしても、アヤとわたしには関係のない話よね。

 さて、と。

 とりあえずは、アヤの三度目の人生の幼馴染による死亡エンドは回避出来た。

 ここに長居は無用だわ。

 街に行って宿屋で休むしかないわね。

 倦怠感を覚えてしまった。一瞬、この屋敷のどこかこぎれいな場所で休んで行こうかと思った。だけど、すぐに考え直した。

 死と腐った臭いだけは、この敷地内のどこにいたって免れない。

 それに、いつなんどきだれかがやって来るともかぎらない。

 たとえば、さきほどわたしたちを運んで来た街の雇われ馭者が、不審に思って通報するかもしれない。

 さっさとここから去るのが無難よね。

 決断すると行動は早い。

 トランクに近づくとそれを持ち上げ歩きだした。

 アヤの幼馴染のブルーノは、いまもまだ痛みにのたうちまわり、悲鳴ともうめきともつかない声を発し続けている。

 彼や多くの死者の怨念が渦巻く屋敷を、二度と振り返って見ることはなかった。