『おれは大丈夫。いいから、行くんだ』

 あのとき、マリオの言葉をどうして信じてしまったの?どうして侯爵がもう立ち上がれない、と判断してしまったの?どうして彼を無理矢理にでもあの牢から連れだし、牢に鍵をかけて侯爵を閉じ込めなかったの?

 わたしの行動すべてが悔やまれてならない。

 こんなこと、前世でも現世でもなかった。

 わたしが聖女としての加護の力を止めたが為に、この国の様々な地域で災厄や危難がふりかかっている。そのお蔭で、大勢の人々が傷ついたり死んだリする。

 そういうもろもろのことに気がついたとき以上に悔やまれる。

 自分自身を憎悪してしまう。

「マリオ、どうしたのよ?あなた、タフな暗殺者でしょう?あれしきのことで何よ?お願いよ、戻って来て。わたしのもとに帰って来てよ」

 両手を伸ばし、彼の右手に触れた。死んでいるのではないかと思えるほど冷たくなっている。

 いつの間にか、また涙が流れていた。何度も何度も同じことをつぶやいてしまう。

 話しかけることで彼が戻って来る。

 なぜかそう思った。そう信じたかった。

 だから、何度も何度も彼に話しかけた。

 声がかれるまで、彼に話しかけ続けた。


 名前を呼ばれているような気がした。話しかけられているような気がした。

 しまった。

 いつの間にか眠ってしまっていたみたい。

 重い瞼を開けて最初に飛び込んできたのは、室内に溢れている陽の光である。とはいえ、窓にとりつけられている鉄格子が邪魔をし、本来の明るさよりじゃっかん弱いかもしれない。それでも、地下牢の薄暗さや夜の闇にくらべれば、まぶしすぎるくらいである。

 そうだわ。そんな明るさのことはどうでもいい。

 どうやら、寝台に上半身を預けて突っ伏してしまっていたみたい。っていうよりかは、マリオにおおいかぶさっていたようである。

「アヤ、アヤ、重いよ。いまどきの聖女様は、寝込みの男を襲うのかい?」

 弱弱しいけど、わたしのすぐ下からたしかに声がきこえてくる。

「な、なにを言っているのよ」

 思わず、叫びながら上半身を起こした。

「重い重いって言わないでちょうだい。それに、寝込みなんて襲っていないわ。だいたい、どうしてわたしがあなたの寝込みを襲うのよ。襲うのだったら、とっくの昔にあなたの喉は斬り裂かれているわ。そんなありもしない戯言なんていえないようにね」

 そんな強がりを言いながら、またしても涙が頬を伝っていることに気がついた。

 わたしったら、こんなに泣き虫だったかしら。アヤにしろわたし自身にしろ、涙はどこかに封じ込めているはずなのに。

 泣くなんてこと、そのときが来るまでタブーのはずなのに。

「なんだ。てっきり襲ってくれるのかと思ったよ」

 彼のワイルドな美形の色は、控えめに表現してもよくない。それでも、いまは死人よりかは赤みがさしているように見える。

 その赤みがかった顔の色は、射し込んでいる陽の光によるものではないはず。

「もしかして、おれの為に泣いてくれているの?」

 彼が右手を伸ばしてきて、わたしの目尻に溜まっている指先で拭ってくれた。

「襲う?そうね。あなたがあと数分目を覚ますのが遅かったら、喉を掻き切るか絞めることが出来たのに。それから、あなたの為に泣いてる?そんなわけはないじゃない。疲れすぎていろいろなことが嫌になって情緒不安定になっているだけよ」

 わたしってば、何を言っているの?

 どうして思ってもいないことばかり言うの?

 これだと、完璧嫌な女じゃない。

「そうか……。ちょっと期待したのに。それに襲うって、そっちの襲うじゃないし」

 彼は、おどけた調子で言った。それから、短く笑った。

 彼の言う「襲う」のほんとうの意味に気がつき、顔が火照るのを感じた。

 なんなのよもうっ!

 嫌な女のつぎは、初心な女?

「からかわないで」

 自分の複雑怪奇な感情をごまかす為、わざとぶっきらぼうに言った。

「それで、気分はどう?」
「ああ、死んで生き返った気分だよ」
「なにそれ?どういう意味なの?」

 彼は、わたしとしっかり視線を合わせた。

 胸のいたるところでチクチクしている。ドキドキもしているしキュンキュンもしている。

 認めなくてはならない。だけど、認めたくない。

 ここまできたら、もうごまかせない。

 これ以上、ごまかしようもない。

 素直に認めるしかない。

 頭ではわかっている。だけど、心と頭のどこかで認めるのを怖がっている。

 自分が臆病であることについても認めざるを得ないようである。

「地下牢であなたが見栄っ張りのナルシストだってわかっていたら、あなたを一人にしなかったのよ」

 そしてやはり、可愛くない言葉が口から飛び出してゆく。