とりあえず皇太子殿下の顔をなでなでしてみようと気合いを入れなおした瞬間、彼の口許がかすかに動いたような気がした。

 えっ?

 もう一度よく見ると、瞼もわずかに震えている。

 よかった。

 なでなではやめておき、そのまま手をかざして気を集中した。

「殿下っ」

 ヴァスコのテノールの声が、いまはソプラノになっている。

 もう一度皇太子殿下の首筋に指を這わせ、鼓動を確かめてみる。

 戻っている。しかも、はっきりくっきり規則正しく刻んでいる。

 聖女の癒しの力ってすごい!

 心から感服してしまった。

 自分の暗殺者のスキルとは真逆のこの力は、ほんとうにすごすぎる。

 だけど、ちょっと疲れたかも。

 はじめて使う力だから、体というよりかは精神《こころ》が疲れてしまったのね。

「アヤ、ありがとう。ほんとうにありがとう」

 何度もお礼を言うヴァスコの声は、そうとわかるほど震えている。

「だが、きみは癒しの力がないと……」
「突然目覚めたの……」

 嘘ではない。

「突然目覚めた?あっいや、突然目覚めてくれてよかった」

 彼は、目に見えて困惑している。

 ええ。困惑するのはよくわかるわ。

 そのとき、「バンッ!」と何かが叩きつけられたような音が響き、二人して飛び上がってしまった。

 そうだわ。マリオよ。彼を置いてきているんだった。

「ヴァスコ、とにかく高い所へ移動しなくては。まだ予断は許さないから」
「ああ。行こう」

 わたしが先に立ち、移動を開始した。

 ヴァスコは、皇太子殿下をお姫様抱っこしたままついて来る。

 ヴァスコ(かれ)がなんともなくってほんとうによかった。

 わたしだったら皇太子殿下をお姫様抱っこして走る、なんてこと到底出来ないはずだから。

 やはり、癒しの力は精神力を消耗させるのね。

 走りながら、自分がいろいろな意味で疲弊していることを実感してしまう。

「マリオッ!」

 もといた牢の前に達した瞬間、彼の名を呼んでいた。

 彼が檻に叩きつけられた状態で宙ずりにされているからである。

 なんてタフなのかしら。

 マリオを宙ずりにしているのは、もちろん侯爵である。

 彼はわたしに目を斬られ、マリオにぶん殴られてひっくり返ったはずである。それなのに、マリオを檻に叩きつけ、宙ずりにしている。

 わたしが斬り裂いた両目から、涙のように血を流している。

「この忌み子が……、呪われし売女の子め……」

 そして、侯爵は何かに憑かれているかのように同じフレーズをつぶやき続けている。

 その異様なまでの光景を目の当たりにし、さすがのわたしも背筋に冷たいものが走った。

「アヤッ」

 ヴァスコの呼ぶ声で、引き戻された。

「皇太子殿下を頼む。わたしがマリオを助ける」
「いえ、あなたははやく行って。さあ、行くのよ」

 ヴァスコの申し出を断りながら、彼の背中を乱暴に押した。

「気をつけろ」

 彼は一瞬心配げな視線を向けてきたが、すぐに駆けだした。

 その背を見送る暇もない。牢内に視線を戻したときには、軍用ナイフを抜いて牢内に飛び込んでいる。

 侯爵は錯乱しているのか怒りにわれを忘れているのかはわからないけど、わたしが向かっていっていることに気がついていない。視覚では認識できなくても、感じることは出来るはずなのに。

 もしかすると、気がついているけどそれどころではないのかもしれない。

 躊躇も迷いもない。軍用ナイフ(それ)を突き出した。

 とにかく、マリオを救いたい。その為ならなんでもする。自分がどうなろうと相手がどうなろうと知ったことではない。

 彼を助けたい。

 いまのわたしは、それしかかんがえていない。それがすべてである。

 だから、それ以外には何もかんがえられない。

 狙いは一つ。

 全身全霊の力をこめて突き出した軍用ナイフは、狙う箇所に向かって一直線に宙を翔ける。

 そして、貫いた。

「ゴボッ!」

 空気の漏れる音がかすかにし、血が噴出しはじめた。

 軍用ナイフが喉頭部を貫いた瞬間、軍用ナイフ(それ)を引き抜いた。

 血は、小説で表現されるような噴水のごとく噴出するのではない。あれは、あくまでも架空の演出である。実際のところは、ゴボゴボと地下水が湧き出る感じである。

 侯爵の両手からマリオが解放され、彼は檻に背をつけたままズリズリと石床上へとずり落ちてゆく。

「マリオ」

 ぐったりしている彼に近づくと、皇太子殿下と同じように首筋に指をはわせて鼓動を探った。

 かすかにしか感じられない。

 それでも脈打っている。心臓は動いている。

「マリオ、心配しないで。すぐに癒しの力でもとに戻る。少しだけ待って。もう少しだけ我慢してね」

 動揺のあまり自分が何を言っているのかわからない。どうしていいのかわからない。

 頬に冷たいものを感じた。

 そのときになってやっと、自分が涙を流していることに気がついた。