アヤ。ついさっきわたしの命を救ってくれたばかりなのに、ほんとうにごめんなさい。

 マリオ。あなたを物理的に死ぬほど傷つけたばかりか、結局死なせることになってごめんなさい。

 二人とも、愛しているわ。

 意識が遠のいていく。だんだんと恍惚とした気持ちになってきている。

 前世で暗殺の手段で絞殺を指定された場合、当然暗殺する相手の首を絞めて殺す。その相手が息絶える直前、みんな恍惚とした表情を浮かべていた。

 それが、この感覚に違いない。

 ということは、もうすぐわたしも死ぬのね。

 こえだと死亡エンドの手段が、二酸化炭素ではなくて侯爵に首を絞められての方法に変更になったというだけのことよね。

「くそっ、放せっ!」

 侯爵が怒鳴った瞬間、彼の手の力が弱まった。

 かろうじて瞼を開けると、マリオが侯爵の大剣を握る手と柄をつかんでいる。そのマリオを、侯爵は力任せに腕を振ったり蹴ったりして痛めつけはじめた。

「この忌み子め、放せっ!放すんだっ」

 まだ意識はかすんでいるけれど、侯爵がそう叫んでいるようにきこえた。

 忌み子?

 どういう意味なのかしら?その意味がわからない。

 どちらにせよ、そんな言葉はどうでもいい。

「おまえこそ、アヤを放せっ」

 マリオは、蹴られても石床に叩きつけられても侯爵の手と大剣の柄から手を放そうとしない。

 必死に食らいついている。

 マリオの鬼気迫るしぶとさに、侯爵のわたしの首を握る手の力がさらに弱まった。

 そのチャンスに、侯爵の手から逃れようと力をふりしぼって暴れた。暴れつつ、石床上に落ちている軍用ナイフを爪先でこちらに引き寄せようと試みた。

 軍用ナイフが少しずつこちらに近づいて来る。

 そしてさらにそれが近くなったタイミングで、爪先で軍用ナイフの刃先を踏んづけた。すると、うまい具合にナイフが宙に跳ね上がった。そして、宙をクルクル回りながら上昇するナイフをつかもうと右手を伸ばした。

 一瞬、刃先に人差し指がかすった。

 失敗した?やはり、小説のようにはうまくいかないわね。

 あきらめかけた。だけどマリオが倒れそうになりながらでも侯爵にすがりつき、必死に彼の動きを封じようとしてくれているのが目の端に映った。

 それを見、わずかに気力が戻ってきた。すばやく手のひらを返し、指を思いっきり伸ばした。すると、クルクルと落下をはじめた軍用ナイフの刃先が、人差し指と中指の間にはさまった。

 やったわ。いまのはまるで、小説に出てくるような奇蹟ね。

 軍用ナイフの柄をもう片方の手で握ったと同時に、そのまま閃かせた。

 侯爵の顔面に向けて。

 その一撃は、見事侯爵の目を左から右へと横薙ぎに斬り裂いた。

 彼の手から大剣がはなれ、大剣(それ)は石床に音高く落下した。

「このアマッ!」

 数時間前までの崇高な騎士然とした侯爵は、どこにもいない。

 彼の本性をようやく目の当たりにすることが出来た。

 彼は両手で目を覆って右往左往しつつ、わたしに対して悪口雑言ときくに堪えない卑猥な言葉を吐き続けている。

「彼女の名を口にするな。彼女のことを悪く言うなっ」

 その侯爵にマリオがフラつきながら近づいた。

 彼は拳を握りしめると侯爵の顔面に全身全霊のパンチを食らわせた。

 痛そう……。

 思わず自分の顎をおさえてしまった。

 侯爵はしばらく目を手で覆ったまま持ち堪えていたが、そのまま背中からひっくり返ってしまった。

「アヤ、これを」

 マリオは、ひっくり返ってピクリとも動かない侯爵の甲冑をまさぐると、鍵の束を見つけだしてこちらに放ってよこした。

「アヤ、はやく。はやく皇太子殿下とヴァスコを」
「わかったわ。だったら、あなたも……」

 マリオは上半身を折り、両手を両腿につけて荒い息をついている。

「おれは大丈夫。いいから、はやく行くんだ」

 彼の怒鳴り声は、有無を言わさない厳しさがあった。

「わかった」

 だから、応じるしかない。

 後ろ髪惹かれる思いで、牢を出て奥へと向かった。

「皇太子殿下、ヴァスコ」

 走りながら呼んだ。

 侯爵が彼らを連れて来て、彼らをどこかの牢に放り込んでからすでに数分は経っている。すくなくとも二酸化炭素をたっぷり吸い込み、その影響が出ていておかしくないだけの時間は経っている。

 それでも、一縷の望みを託したい。

「アヤッ、ここだ」

 そのとき、左斜め前の牢内から腕が出て来た。

「ヴァスコッ!あぁ神様、感謝します」

 ついさっきマリオに「神様を信奉しているのか」とからかったばかりなのに、自分も同じことを口走ってしまった。