「ああ、ごめん。わからないことだらけで、何から尋ねればいいのかわからないんだ」

 マリオは、振り返らずにそう言った。

 彼が自分のことを「おれ」と呼ぶのをきいて、なぜか優越感に浸ってしまう。

 わたしの前だけでそう呼ぶ。

 そうかんがえると、うれしくなる。

 その感情に、戸惑いを覚えてしまった。

 石段を下りきったところで、彼が急に立ち止まってこちらを振り向いた。

 いつもだったら気がつくはずなのに、自分の感情に戸惑っていて気がつくのが遅れてしまった。

「おっと」

 ぶつかりそうになったところを、彼が両腕を伸ばしてわたしの両腕(それ)をつかんで止めてくれた。

「ご、ごめんなさい。かんがえごとをしていたわ」
「いや、いいんだ。おれが悪い。急に立ち止まったから」
「べ、別にいいのよ」

 見上げると、彼のワイルドな美形が見下ろしている。そのいつにない真剣な表情に、ドキリとしてしまった。

 どちらも口を開かない。

 何かしゃべらなければ……。
 ほら、侯爵の事とか皇太子殿下の事とかいろいろあるでしょう?

 焦れば焦るほど、言葉が浮かんで来ない。何を言っていいのかわからない。

 沈黙の中、地下牢のどこかで水の落ちるかすかな音がしている。それから、自分の心臓がやけに大きく鼓動を打っていることに気がついた。

 小説風に表現すれば、早鐘を打っているというような感じかしら。

(早鐘って、そんなおおげさな)

 恋愛とか怖い小説を読んだ際には、そんな表現を笑っていた。だけど、これがまさしく早鐘を打っているってことじゃないかしら?

 早く打ちすぎて、このまま心臓が止まってしまうのではないかしら。という以前に、彼にきこえやしないかしら?

 そう思うと、余計にドキドキしてくる。

 前世のわたしのときも、現世のアヤのときも、こんなことはこれまで一度もなかった。

 たしかに、まともな男に出会ったり接したりしたことがなかったので、当然かもしれないけど。

 だけど冷静にかんがえれば、彼だってまともな男じゃないわよね。

 なにせ、凄腕の暗殺者なんですもの。

 やっていることだけをかんがえれば、これまで出会ってきた男どもの中で一番最悪じゃないかしら。

 彼の批評はともかく、前世でわたしは娼婦だったこともある。暗殺に従事するようになっても、時と場合によっては男と寝たりした。

 男に慣れていないわけじゃない。むしろ、いいようにあつかっていた。

 そのわたしが、まだ男を知らない初心な少女みたいにドキドキしているというわけなの?

 ああ、そうだったわね。

 これはきっと、わたしではなくアヤよ。アヤの感情の残滓なのよ。

 そうよね。このわたしが男ごときにドキドキしたり、ましてや好きとか愛されたいとかそんな感情を持つわけがないわよね。

 わたしってば、やはりどうかしている。しっかりしなくっては。

 その瞬間、わたしの肘あたりを握っている彼の手に力がこもった。

 そして、気がついたら彼に抱き寄せられて筋肉質な胸におさまっていた。

 自分でも驚いたことに、ますます緊張し、胸が高鳴ってきた。顔がますます火照ってくるのを感じる。

 そんなバカな。

 生娘って、アヤはもちろんそうだけど、わたし自身はそんなものとはほど遠い穢れた女である。

 それがどうして?

 やはりアヤのせいよ。彼女の精神が出てきているのよ。

 こんな気持ち、そうとしか説明がつかない。

「アヤ……」

 その名を呼んだ彼の声がかすれている。

 どうにかこうにか視線を上げてみた。

 地下牢のほの暗い灯りの中でも、彼のワイルドな美形が真っ赤になっていることがわかる。

 なに?ちょっと、彼ったら真っ赤じゃない。

 可愛い……。

 自分のことは棚に上げ、彼のことを可愛いと思った。

 カリーナ(わたし)だったら、しかめっ面をして「どうするの?ヤルの?ヤラないの?ヤルんだったら、さっさとズボンを脱いで一物をぶち込みな」って、なんの感情もまじえずに言うはずである。

 カリーナ(わたし)だったら、こういう雰囲気になったら場所がどこであろうとさっさとヤッたのよ。

 だけど、いまはアヤの精神。だから、そんなはしたないことなどまったくかんがえもしない。想像も出来ない。

 正直なところ、恥ずかしくて照れ臭くってどうにかなってしまいそうである。

 彼がわたしの髪にやさしく口づけをするのを感じる。それはもう大切なものに触れるかのような軽い口づけである。

 これがつい数週間前、わたしにナイフで襲いかかって来た男なのである。

 とはいえ、わたしも散々反撃してしまったけれど。

 彼は、わたしの髪に頬をくっつけたまま動こうとしない。

 だから、しだいに落ち着いて来た。

 それでもまだ、胸の高鳴りは静まりそうにない。