クレメンティ公爵家のアヤの部屋の窓は、あらかじめ開けておいた。すぐにでも屋敷を出て行けるよう、荷物は窓の下の茂みに隠している。荷物といっても、もともと物はあまりない。数枚のシャツ、それから数本の乗馬ズボンと一枚のスカート。淑女である彼女は、当然のことながらスカートしか持っていない。だけど、これからの生活のことをかんがえれば、スカートよりズボンの方が動きやすい。聖女と言えど、さすがに公爵家令嬢。淑女のたしなみなのか、乗馬もしていたらしい。クローゼットに乗馬服があったので、それをトランクに詰め込んでおいた。

 たった一個のトランク。それが荷物である。

 アヤの実父と義母、それからわたしをハメた義姉は、まだ皇宮の大広間にいる。いえ、もしかするともうそこからこちらに戻ってくる馬車の中かもしれない。
 いずれにせよ、彼らが戻って来るまでに屋敷を出て行った方がいいわね。

 どちらにとっても。

 茂みから窓を開けてドレスの裾を尻端折りし、軽快にジャンプして窓を乗り越え部屋に入った。その際、茂みにドレスをひっかかって破けてしまったけれど、気にしない気にしない。

 あらかじめ準備しておいた乗馬服に着替えた。

 ドレスは、脱ぎ捨てておく。

 だって、もう淑女のふりなんてする必要などないんですもの。

 姿見で外見をチェックをしていると、廊下に人の気配を感じた。

「どうやら、アヤお嬢様は追いだされるらしいわよ」
「アヤお嬢様って陰気な方よね。ということは、ついに夫人とその娘がこの家を乗っ取るわけね?そもそも、旦那様は亡くなった奥様を顧みず、新婚当初から浮気されていてどうかと思うわ。しかも、奥様よりも先に浮気相手に子どもが出来て、出産を許すなんて……」
「そうよね。奥様が亡くなったと同時に、当然のように乗り込んで来たんですもの。陰気なアヤお嬢様も鬱陶しいけど、あの母娘もたいがいだわ」

 アヤ専属のメイドの声もする。
 彼女の名前は、たしかロージーだったかしら?

 ずいぶんと長い付き合いだけど、彼女はいつもわたしを小馬鹿にしていた。

 聖女と崇められていたアヤも、家では陰気な小娘と陰口を叩かれていた。どうやら、彼女の実母が亡くなり、アヤの実父の浮気相手が後妻としてその娘とともに押しかけて来てからは、使用人たちはますます彼女を蔑むようになった。

 面倒くさいことはごめんだわ。だから、このままきこえなかったふりをして窓から飛び出せばいい。

 だけど、淑女の中の淑女のアヤにかわって言ってやりたい。っていうか、わたしが彼女たちにされてきた陰険なイジメや悪口に対して、わたし自身が言ってやりたい。

 迷ったのは一瞬だけ。

 アヤの部屋の扉を思いっきり開けてやった。それこそ、扉の蝶番がふっ飛ぶくらいの勢いで。

「きゃあっ!」
「きゃあああっ!」

 二人のメイドの悲鳴は、耳に痛いくらいだった。

 二人とも、まるで幽霊か魔物にでも出会ったかのように、口に手を当て仰天している。

 それはそうよね。窓からこっそり戻って来たので、まさか部屋にわたしがいるなんてこと、思いもしないわよね。

「お、お、お嬢様。お、お戻りだったのですか?」

 ロージーだったかしら?とにかく、彼女は仰天しつつも咎めるような口調で言って来た。

「あら、気がつきませんでしたか?先程、戻って来たのです」

 嘘ではない。エントランスではなく、窓からだけど。

「早いですね。舞踏会は、遅くまであるはずですが」

 このクソ女。それが、仕えるべき主人に対して言う言葉なの?フツー、早く戻って来たとなると、体調不良とか不測の事態が起こったからでしょう?

 まずは何かあったのか、と心配するところよね。

「ええ。舞踏会はまだ続いています。個人的にハプニングがありましたので、失礼させていただいたのです。お父様やお義母(かあ)様、お義姉(ねえ)様も間もなくお戻りになると思います。二人とも、こんなところで油を売っていないで、お迎えの準備をした方がいいと思うわ」

 わたしの嫌味な言い方が気に入らなかったのね。たぶんロージーという名前だと思うけど、彼女はもう一人のメイドと顔を見合わせてから冷笑を浮かべた。

「お嬢様、噂ではクレメンティ家を勘当されるとか」 

 よりにもよって、核心をついてきた。

 いっそ清々しいわね。そういうの、嫌いじゃないわ。

「クレメンティ家を勘当?どこからの噂かは知らないけれど、そんななまやさしい罰じゃないわ。わたし、この国を追放になったの。つ・い・ほ・う、よ。ふふふっ、すごいでしょう?国を追放されるのよ」

 さわやかなまでの笑みを浮かべつつ言ってやると、二人は口をあんぐり開けておたがいの顔を見合わせた。