ここまで激しい応酬をしあったのは、わたしがわたし自身の体であったときに一度しかない。

 戦うようなケースは、同業者であろうとそれ以外であろうと、たいていは自分自身の体を餌にして相手を誘いこみ、殺してしまう。つまり、ほとんどケースが相手を圧倒して一方的にその命を奪ってしまう。

 ここまでの激闘は、そうそうあるものじゃない。

 わたし自身の前世で、体力の限界までやり合うようなことは一度しかなかった。

 だけど、いまは自分の体じゃない。アヤの体である。いくら鍛錬を重ねてきたからといっても、そもそもの体のつくりが違っている。

 体力と精神力が限界に達するのは、わたし自身の体よりずっとはやいはずである。

 そして、すでにそれを感じている。

 だけど、ここまでやってきて殺されるのは、プライドが許さない。

 もちろん、聖女としてのプライドではない。元暗殺者としてのプライド(それ)ある。

 じょじょにおされはじめた。

 というのは、限界に近いと思わせるようおされはじめたふりをしている。崖に追いつめてもらいたい。だから出来るだけ苦しそうなふりをしつつ、攻撃も防御もおさえた。

 少しでも早く、この戦いに終止符を打たなければならない。

 というわけで、思い切った手段に出ることにした。

 崖の方へとジリジリ下がりながら、そうとは気づかれぬようおされているふりをしている。

 攻撃するのを抑えれば、その分力を温存することも出来る。

 マリオが気がつきませんように……。

 そう願わずにはいられない。

 ナイフがぶつかり合って火花を散らし、蹴りや拳が体や頭や手足をかする。

 蹴りや拳を繰りだしている内に、不思議と相手に対して愛着がわいてきた。

 戦っている時間はそう長くはない。それこそ、寝台で肌と肌を合わせ、重ねるのと同じようなひとときである。
 だけど、命のやり取りをしているこちらの方が、寝台での行為よりも、よほど濃密なときをすごすことが出来る。 

 それこそ、数えきれないほどの回数ぶつかり合っている。たったいまも、ナイフの刃どうしが火花を散らすほど激しくぶつかり合い、そのまま力比べに入った。

 刃と刃が悲鳴を上げている。ぶつかり重なり合う刃は、まるで寝台での男女の行為そのものである。

 マリオの息遣いを、闘志を、すぐ間近に感じる。それもそのはず。彼の顔は、口づけできるほど近いのだから。

 ぶつかり合いながら、目と目で牽制しあう。

 そのとき、全身に衝撃のようなものが走った。それは、唐突であった。

 なんてことなの……。

 どうして忘れていたの?思い出せなかったの?

 その衝撃の強さに、力が抜けそうになった。それを、かろうじて気力を振り絞って持ちこたえた。

 この男を知っている。

 この暗殺者を知っているのである。

 この暗殺者と、前世で会った。

 この暗殺者と、前世でやり合った。

 そうよ、そうだわ。

 この暗殺者の美形に傷をつけたのはわたし。わたしが、彼の右頬をナイフで斬り裂いたのだ。

 この暗殺者と死力を尽くして戦い、かろうじて殺されずに済んだ。

 だけど、わたしはその死闘の直後に捕まったのである。

 そのとき、わたしには逃げたり抵抗したりする体力は残っていなかった。 

 なんてこと……。

 ある意味、運命的な何かを感じずにはいられない。

 わたしが衝撃を受けたことや動揺など、彼には関係のないことである。あいかわらず激しく攻撃してくる。

 すっかり忘れ去っていた記憶の一端が現れると、あとはどんどん記憶が、よみがえってくる。

 前回戦ったときの彼の癖、攻撃パターン。いまでははっきりと思い出すことが出来た。

 その記憶に従い、防御に徹する。

 そして、さらに追いつめられてゆく。

 ついに崖っぷちに追いつめられた。轟音だった川の流れの音が、いまは爆音になっている。

 さっと視線を後ろ下方へと走らせた。

 小説に出てくるような高所ではない。なんでもないときなら、飛び降りても充分助かる。だけど、いまは違う。高さ的には問題ないけれど、いまの川の大激流にのみこまれれば、なす術もなく溺れ死んでしまう。

 それから、あらためて自分が崖っぷちに追いつめられ、もう後がないことに気がついたふりをした。

 彼の動きが止まった。彼はバック転で距離を置き、わたしと対峙した。

 これまでのような笑みはない。それどころか、その瞳は、わたしに対して敬意を表しているような色を帯びている。それが、月明かりの下でよくわかる。

 これが最後の攻撃ね。

「戦えてよかったよ、聖女様」

 彼が言って来た。勝ち誇ったような言い方ではない。やはり、敬意を表しているような声音だった。

 彼が神速で間を詰め、ナイフを繰り出してきた。

 崖を背にし、絶望に打ちひしがれているふりをしている。

 そう。わたしは、彼のこの最後の攻撃を待っていたのである。