水の神女と王印を持つ者~婚約破談のために旅に出た幼女は出会った美麗の青年に可愛がられてます~

 やけに機嫌の良い凜抄の顔を見た使用人達はすれ違いざまに深々と頭を下げる。
 機嫌の良い時の凜抄は穏やかに接してくれるわけではないことを使用人達は理解している。

 機嫌の悪い時は物や使用人に当たり散らして暴れ回る。

 物を壊したり、使用人を叩き、怪我をさせたりする程度で済む。
しかし機嫌の良さそうな時ほど、先程のように残忍な振る舞いをするのだ。

 笑いながら皮膚が破れるまで鞭打たれた者もいた。指や手を切り落とさせた者もいた。簪で目を突かれた者も。

 先ほどの侍女はまだマシだと言って良い。

 機嫌が良い時ほど、凜抄は狂人の面を見せた。
 廊下ですれ違う使用人達はみんなが微かに震えている。

 凜抄の顔が狂気に満ちているからだろう。

 恐怖でこの一族は邸の使用人達だけでなく、この町を支配しているのだ。
 前を歩く凜抄と舞優の後を追い、詠貴は裏口から母屋を出た。

 普段は裏口などに用事のない凜抄が急に現れ、使用人達に緊張が走る。
 しかし使用人達などには目もくれず、狂人二人は裏手にある蔵を目指して歩いていく。

 支柱や滑車の老朽化が進み、現在は水を引き上げる縄すらついていない井戸の前を通り、蔵の前に到着してしまった。

「詠貴、開けて頂戴」

 詠貴は蔵の前に立ち、戸に手を伸ばすがそこで留まる。
 凜抄の表情は憎悪と狂気が消えていない。

 これからこの女が何をしようとしているのか察しているからこそ、詠貴は素直にこの扉を開ける訳にはいかない。

「……一体、子供に何をするおつもりですか?」
「躾けよ。悪い子供には躾けが必要でしょう?」

 そう言って笑う凜抄の手にあるのは鋭く尖った簪である。

 月の灯りが銀色の簪を光らせた。
 背中に嫌な汗が伝い、狂気に当てられて身体が震える。

「何も悪いことなどしていないでしょう」

 震えちゃ駄目、中にいる子供はもっと震えているわ。
 怯えを隠すように凜抄は声を発した。

「しているわ。私か鳳様を奪い、独占しようとしているのよ。どこの馬の骨をも知れない乳臭い餓鬼が私の所有物に手を出したのよ!」

 金切り声を上げて目を吊り上げるその姿は醜悪で、まるで幼い頃に本で見た鬼のようだ。

「許せないわ! あんな餓鬼のために! あの人の時間が使われるなんて!」

 凄い剣幕で凜抄が詠貴に接近する。

「鳳様は貴女の所有物ではありません! 子供には大人が必要なのです! 当然のことではありませんか!」

 詠貴の言葉は逆効果で詠貴の怒りを更に爆発させた。

「私の物よ! あの人の全ては私の物でなければならないのよ! 醜い餓鬼に奪われるなんて許せないわ!」

 そう言って凜抄は鋭い簪を振り上げた。

 簪の鋭利な先端が月明かりで光り、詠貴に向かって振り降ろされる。

 詠貴は反射的に目を瞑る。

 刺される!

 そう思い身体を強張らせると低い呻き声と鈍い衝撃と共に、身体を何かに包まれる。

恐る恐る目を開くと詠貴を守るようにその腕に抱き込んで凜抄の攻撃を受けていた桂月の姿があった。

「桂月!」
「どきなさい!」

 幾度となく振り降ろされる簪を全て桂月が受け止める。

 苦悶の表情を浮かべるも、詠貴を庇う腕は緩まない。
 赤い雫が跳ね、服に血が滲み、あちこちから流れ落ちた。

 細い簪でもとても鋭利な先端は危険な凶器だ。

「止めて下さい! 止めて!」

 詠貴が叫んでも凜抄の猛攻は止まらない。

 ブス、グサッと肉の塊を突く音が耳に響き、恐怖に身体が大きく震えた。

「うっぐ」

 低い呻き声と共に、桂月から力が抜け、詠貴に向かって倒れ込む。

「桂月! しっかりして! 桂月!」

 苦悶の表情を浮かべて痛みと戦う桂月に詠貴は叫ぶ。

 私を庇ったせいで……こんな……。

 詠貴の手に桂月の血が絡み付く。

 酷い怪我だ。早く手当をしなければ……でも子供が!

 手薄になった扉の前に凜抄が立つ。
 桂月の血で濡れた簪を手にして。

「詠貴、お前も桂月も後でたっぷり躾けてあげるわ」

 返り血を浴びた顔で凜抄がいう。

 血走った目、白い肌に赤黒い血液が飢えた獣のようで詠貴の恐怖心を煽った。

「止めて! 酷いことしないで!」
「うるせえな」

 叫ぶ詠貴に舞優が一瞥する。

「きゃあっ」

 そして桂月の身体を蹴り飛ばし、詠貴も一緒に地面に倒れ込んだ。

「開けなさい」

 舞優は気だるげに言われるがままに扉の前まで移動すると扉に手を掛けた。