それはごめんだ。こんな恐ろしい思いをした後にひとりで取り残されるのは勘弁してほしい。
 璃世がおずおずと差し出された手のひらに自分のものを重ねようとした、そのとき。

 千里の肩越しに、黒く大きなものが猛スピードで近づいてくるのが見えた。

「千里!」

 半分悲鳴のような声で名前を呼んだ次の瞬間、千里は振り返ることなく後ろに向かって腕をひと振りした。

「ギヤアァァァッ」

 断末魔の叫びを上げたバケモノは、黒い砂塵となってあっという間に消えてしまった。

「浅はかなやつめ」

 パンパンと手をはたきながら千里がそう口にする。
 璃世は思わず目を丸くした。もしかして彼は最初からこうするつもりで逃がしたのだろうか。

 すると彼はまるで「正解」とでも言うように口の端を片方持ち上げてから、地面にへたり込んだままの璃世の腕をとった。

「俺は小者の浅知恵にはまるような阿呆ではないぞ――っと」
「きゃっ」

 勢いよく腕を引かれた反動で立ち上がる。けれど足にはまだ力が戻っておらず、グラリとよろめいた。その瞬間、璃世の体がふわりと浮いた。

「わぁっ! な、な、なにをっ……」
「別のやつが寄ってきたら面倒だ。さっさと帰るぞ」

 急に抱き上げらえたことにパニックになる璃世のことなどお構いなしで、千里が歩きだす。

「下ろして! 歩けるから下ろして!」

 千里の腕の中で足をジタバタさせると、ギロリと睨まれた。間近に見る顔は恐ろしいほど整っていて、睨まれているというのに不覚にもドキっとしてしまう。

「うるさい。落とされたくなかったらつべこべ言わずにおとなしく掴まってろ」

 問答無用で歩き出した千里は、人ひとりを抱えているとは思えないほど軽やかな足取りでその場を後にしたのだった。