「隙あり!」
 店長の手が、長机に広げたままになっていたわたしのお弁当箱に伸び、素手で卵焼きを掴むと、そのまま自分の口に放り込んだ。

「あああ……!」
「なにこれ、うま!」

 卵焼きを強奪され、思わず叫んだものの、「うま」と言われて、かあっと頬が熱くなる。それを隠すようにジト目をし、睨むように店長を見た。

「今日の卵焼きは最高傑作だったのに……」
「ごめんごめん、うん、うまかったよ」

 わたしのささやかなジト目など全く気にしていない彼は、優しい笑みを見せてくれる。

 とんでもなく、幸福な気分だった。
 好きな人が自分の手料理を食べ、おいしいと言って、笑顔をくれる。ただそれだけのことなのに、叶わぬ恋をしているわたしにとっては、とてつもないご褒美なのだ。

「崎田さん料理上手なんだね。自炊してるの?」
「ええ、まあ、時間があればわりと。昨日は朝番で、今日は昼番だったので、起きてから少し余裕がありましたし」
「しっかりしてるなあ」
「で、最高傑作の卵焼きをひとつ強奪されました」
「え、なに? 残りふたつも食べていいって?」
「店長、これわたしの一食分ですよ」

 言うと彼は楽しそうに声をあげて笑ったあと、腕を伸ばして彼のロッカーからコンビニ袋を取り出した。
 中に入っていたのは数個のおにぎりとインスタントのお味噌汁。これがこの人の今日の一食分らしい。

「お礼に俺の晩飯、好きなだけ食べていいよ」
「え、卵焼きの対価にですか?」
「そうそう」

 店長は黒縁眼鏡の奥の目を細めて、キラキラという効果音がつきそうなくらい爽やかに、穏やかに微笑んでいる。

 とはいえ、卵焼きの対価としてこの人の晩ご飯をいただくわけにはいかない。なんならまだ箸をつけていないこのお弁当を丸ごと渡して、この人のおにぎりを丸ごともらったほうがいいのではないか、とさえ思った。

 なんなら明日から、この人の分のお弁当を作ってきてもいい。一人分も二人分もたいして変わらないし、買い食い分の代金も浮くし、家計にも良いのではないか、とも思った。

 けれどそんなことは許されない。
 この人の食事を用意する権利が、わたしにはないからだ。

 たかがお弁当。でももしこの人の奥さんが、夫が職場の女性スタッフにお弁当をもらっている、なんて知ったらどう思うだろうか。
 ただでさえ不規則な生活を送って、一緒にいる時間も短いというのに。店長の転勤を機に結婚して、地元を離れてこちらに来て、不安なことも多いだろうに。

 その奥さんを、わたしの恋心のせいでさらに不安にさせることはできない。