(ここは……)
ソルマンは、ゆっくりと瞳を開いた。
視界に真っ先に飛び込んできたのは、薄暗い空間だった。
ここには何もなく、果ても見えない。
気が遠くなりそうな空間の中に、ソルマンはいた。
(ここはどこだ? 余は一体……今まで何をしていたのだ?)
記憶に触れようとしたとき、身体に全身を貫くような激痛と本能的な恐怖、そして、
『ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリ、私はあなたが、だいっっっっっっっっっ嫌いよ‼』
『私があなたを愛することは、決して無い。今までも、そしてこれからも――』
最愛の女が満面の笑みを浮かべながら、自分を絶望に突き落とす言葉を告げる光景が思い出された。
あれほど愛してやったのに――
あの男から救ってやったのに――
激しい憎しみとともに、全ての記憶が蘇った。
愛する女のために、自分の命を危機に晒すほどのオドを捧げ、邪魔な大精霊たちを捕らえた。
心身が衰弱した彼女のために、ありとあらゆる手を尽くした。
たくさんの贈り物もしたし、生活に困らせることなど決してなかった。
やっと見つけた自分と同じ存在。
生涯の伴侶は、彼女しかいないと思っていた。
しかしエヴァは、そんなソルマンの気持ちを弄んだ。
気があるフリをして近づき、霊具を奪ったのだ。
そして、
(余の魂は、闇の大精霊に捕まり……)
――喰われた。
肉体的な死ではなく、存在そのものを消される恐怖が蘇る。
自分の背後から迫る、黒い霧。
それが身体に巻きつきこの魂を捕らえた時、力が吸い取られているかのように、魂の温度が急激に下がっていくのを感じた。
何も出来なかった。
ソルマンに残された道は、惨めったらしく足掻き、泣き叫ぶことだけだった。
だがそんな自分を、愛する女はただ見ているだけだった。
闇の大精霊に喰われる瞬間まで、凜然とした立ち姿で見つめていた。
紫の瞳には、ソルマンへの同情や愛情は一切感じられなかった。
(屈辱だ……これほどまでに屈辱を与えられたのは、初めてだ……エルフィーランジュ……)
恩を仇で返されたのだ。
許せるわけがない。
「殺してやるっ、エルフィーランジュ‼ いや、死より辛い罰を与えてやるっ‼」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやる、ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリ」
誰もいないはずの空間に自分以外の男の声が響き、ソルマンはギョッと目を見開いた。辺りを見回し、正面から近付いてくる影を視界の端に捕らえるやいなや、それを凝視する。
影は、やがてはっきり輪郭を纏う。
人間の形を――
「……ルヴァン・チェストネル・テ・フォレスティ」
「久しいな、この姿で会うのは三百年ぶりか?」
憎しみを込めて名を呼ぶソルマンの前で、黒髪の男――ルヴァンが旧友に会ったかのような気安さで声をかける。
しかし明るい声色とは裏腹に青い瞳は冷ややかで、自分の家族を不幸に陥れた元凶を見下している。
だがソルマンにとっても憎き相手。
殺気がこもった冷たい視線などものともせず、ありったけの憎悪を込めてルヴァンを睨み返した。
その時、気付く。
ルヴァンがソルマンを見下ろしていることに――
ソルマンは慌てて自身の身体を見た。
気付けば彼の身体は、両腕を上げた状態で座っている状態だった。両腕は固定されているのか、下ろすことは出来ない。両足は前に投げ出されていて、両腕と同じく動けないよう、見えない何かで固定されている。
(おかしい……魂には形などないはずなのに……)
人の形を纏って拘束されている状況に、ソルマンの心に焦りが生まれる。
前を向くと、すぐ目の前にルヴァンの顔があった。その口元は嘲笑で歪んでいる。
「闇の大精霊に喰われて終わりだと思ったのか?」
予想だにしなかった言葉に、ソルマンは息を飲んだ。
さらにルヴァンの顔が近付く。
見開かれた青い瞳の中に、怯える自分の顔が写る。
「たったそれだけの罰で、許されると思っているのか?」
「あっ……あ、あっ……」
目の前の男は、愛する人を奪い、縛り付けた敵だった。
だが貧弱なオドしかもたぬ、取るに足らない敵。
ソルマンが本気を出せば、簡単にひねり潰すことの出来る相手だったはずだ。
なのに、身体の震えが止まらない。
心の奥から溢れ出る恐怖を、止めることが出来ない。
精霊女王の意に反し、魂ごと消滅するはずだったソルマンを捕らえたのは、間違いなくこの男――
ソルマンの心の内を読んだのか、ルヴァンが鼻で笑う。
「大精霊たちが今世の精霊女王を守った礼に、私の願いをいくつか叶えてくれると約束したのだ。これは――その一つだ」
「ねっ、願い……?」
「そうだ。お前は、妻には言葉にするのも悍ましい苦痛を与え、娘からは本当の親を奪った。残された私がどのような気持ちを抱え、彼女たちの帰りを待ち続けたと思う? ようやく見つけた妻の凄惨な姿を、痩せ細った身体を、抱きしめた時の私の気持ちが分かるか? 娘を殺されたと告げられ、死を望む妻をこの手にかけなければならなかった絶望を、何と言い表せばいい? 私たち家族の人生を滅茶苦茶にした代償が、魂の消滅?」
ゾッとするような笑みを浮かべ、ルヴァンが口を開く。
「軽すぎる」
ソルマンは何も言えなかった。
それほど、目の前の男が発する気迫に圧倒されていたのだ。
その時、両指先と両足先にチリッとした痛みを感じ、思わず顔を歪めた。
(おかしい。肉体を失った余に、痛覚などあるわけないのに……)
本来あり得ないことが起ころうとしている状況に、戦慄した。
この異常に対する回答を持っているのは、間違いなく目の前の男。
「な、何をした? 余に一体何をしたっ‼」
「大したことじゃない。ただ、指の先からゆっくりと消滅していくだけだ。痛覚がある状態でな」
「なっ‼」
ズキリと痛みが走った。
それは瞬く間に激痛へと変わり、あまりの痛さにソルマンは絶叫した。
両目を見開き、痛みから逃れようともがくが、もちろん両手両足を拘束されているため、動くことはできない。
これが続くぐらいなら、ひと思いに消滅した方がマシだと思えるほどの激痛だった。
声を裏返しながら叫びのたうち回るかつての強敵を、ルヴァンは感情のこもらない表情で見下ろしていた。
そんな彼に、ソルマンが縋るように身を乗り出す。
「も、もう、転生など、のぞま、ないっ! 魂ごと消してくれ……あ、あがっ……た、頼む……」
「心配せずともお前は消滅する。大精霊にとって精霊女王の願いは絶対だからな。なに、消滅するまで大した時間はかからない」
「ほ、本当か? これに耐えれば、か、解放される、の、か?」
「ああ」
そう頷いたルヴァンの姿が、ソルマンの目の前から消えた。
代わりに声だけが、空間一杯に響き渡る。
「この【世界】が滅びるまでの、ほんの僅かな時間だ」
ルヴァンの言葉が、ソルマンの耳の奥に木霊のように繰り返される。
世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が 滅びルまデ……世界 が滅 ビルま で……世界 が 滅ビるマ デ……世界 ガ 滅 びルま デ――
(ソレ ハ イツ ダ ――?)
次の瞬間、ソルマンの意識は真っ白になり、終わりの見えない激痛と絶望の中に沈んでいった。
ソルマンは、ゆっくりと瞳を開いた。
視界に真っ先に飛び込んできたのは、薄暗い空間だった。
ここには何もなく、果ても見えない。
気が遠くなりそうな空間の中に、ソルマンはいた。
(ここはどこだ? 余は一体……今まで何をしていたのだ?)
記憶に触れようとしたとき、身体に全身を貫くような激痛と本能的な恐怖、そして、
『ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリ、私はあなたが、だいっっっっっっっっっ嫌いよ‼』
『私があなたを愛することは、決して無い。今までも、そしてこれからも――』
最愛の女が満面の笑みを浮かべながら、自分を絶望に突き落とす言葉を告げる光景が思い出された。
あれほど愛してやったのに――
あの男から救ってやったのに――
激しい憎しみとともに、全ての記憶が蘇った。
愛する女のために、自分の命を危機に晒すほどのオドを捧げ、邪魔な大精霊たちを捕らえた。
心身が衰弱した彼女のために、ありとあらゆる手を尽くした。
たくさんの贈り物もしたし、生活に困らせることなど決してなかった。
やっと見つけた自分と同じ存在。
生涯の伴侶は、彼女しかいないと思っていた。
しかしエヴァは、そんなソルマンの気持ちを弄んだ。
気があるフリをして近づき、霊具を奪ったのだ。
そして、
(余の魂は、闇の大精霊に捕まり……)
――喰われた。
肉体的な死ではなく、存在そのものを消される恐怖が蘇る。
自分の背後から迫る、黒い霧。
それが身体に巻きつきこの魂を捕らえた時、力が吸い取られているかのように、魂の温度が急激に下がっていくのを感じた。
何も出来なかった。
ソルマンに残された道は、惨めったらしく足掻き、泣き叫ぶことだけだった。
だがそんな自分を、愛する女はただ見ているだけだった。
闇の大精霊に喰われる瞬間まで、凜然とした立ち姿で見つめていた。
紫の瞳には、ソルマンへの同情や愛情は一切感じられなかった。
(屈辱だ……これほどまでに屈辱を与えられたのは、初めてだ……エルフィーランジュ……)
恩を仇で返されたのだ。
許せるわけがない。
「殺してやるっ、エルフィーランジュ‼ いや、死より辛い罰を与えてやるっ‼」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやる、ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリ」
誰もいないはずの空間に自分以外の男の声が響き、ソルマンはギョッと目を見開いた。辺りを見回し、正面から近付いてくる影を視界の端に捕らえるやいなや、それを凝視する。
影は、やがてはっきり輪郭を纏う。
人間の形を――
「……ルヴァン・チェストネル・テ・フォレスティ」
「久しいな、この姿で会うのは三百年ぶりか?」
憎しみを込めて名を呼ぶソルマンの前で、黒髪の男――ルヴァンが旧友に会ったかのような気安さで声をかける。
しかし明るい声色とは裏腹に青い瞳は冷ややかで、自分の家族を不幸に陥れた元凶を見下している。
だがソルマンにとっても憎き相手。
殺気がこもった冷たい視線などものともせず、ありったけの憎悪を込めてルヴァンを睨み返した。
その時、気付く。
ルヴァンがソルマンを見下ろしていることに――
ソルマンは慌てて自身の身体を見た。
気付けば彼の身体は、両腕を上げた状態で座っている状態だった。両腕は固定されているのか、下ろすことは出来ない。両足は前に投げ出されていて、両腕と同じく動けないよう、見えない何かで固定されている。
(おかしい……魂には形などないはずなのに……)
人の形を纏って拘束されている状況に、ソルマンの心に焦りが生まれる。
前を向くと、すぐ目の前にルヴァンの顔があった。その口元は嘲笑で歪んでいる。
「闇の大精霊に喰われて終わりだと思ったのか?」
予想だにしなかった言葉に、ソルマンは息を飲んだ。
さらにルヴァンの顔が近付く。
見開かれた青い瞳の中に、怯える自分の顔が写る。
「たったそれだけの罰で、許されると思っているのか?」
「あっ……あ、あっ……」
目の前の男は、愛する人を奪い、縛り付けた敵だった。
だが貧弱なオドしかもたぬ、取るに足らない敵。
ソルマンが本気を出せば、簡単にひねり潰すことの出来る相手だったはずだ。
なのに、身体の震えが止まらない。
心の奥から溢れ出る恐怖を、止めることが出来ない。
精霊女王の意に反し、魂ごと消滅するはずだったソルマンを捕らえたのは、間違いなくこの男――
ソルマンの心の内を読んだのか、ルヴァンが鼻で笑う。
「大精霊たちが今世の精霊女王を守った礼に、私の願いをいくつか叶えてくれると約束したのだ。これは――その一つだ」
「ねっ、願い……?」
「そうだ。お前は、妻には言葉にするのも悍ましい苦痛を与え、娘からは本当の親を奪った。残された私がどのような気持ちを抱え、彼女たちの帰りを待ち続けたと思う? ようやく見つけた妻の凄惨な姿を、痩せ細った身体を、抱きしめた時の私の気持ちが分かるか? 娘を殺されたと告げられ、死を望む妻をこの手にかけなければならなかった絶望を、何と言い表せばいい? 私たち家族の人生を滅茶苦茶にした代償が、魂の消滅?」
ゾッとするような笑みを浮かべ、ルヴァンが口を開く。
「軽すぎる」
ソルマンは何も言えなかった。
それほど、目の前の男が発する気迫に圧倒されていたのだ。
その時、両指先と両足先にチリッとした痛みを感じ、思わず顔を歪めた。
(おかしい。肉体を失った余に、痛覚などあるわけないのに……)
本来あり得ないことが起ころうとしている状況に、戦慄した。
この異常に対する回答を持っているのは、間違いなく目の前の男。
「な、何をした? 余に一体何をしたっ‼」
「大したことじゃない。ただ、指の先からゆっくりと消滅していくだけだ。痛覚がある状態でな」
「なっ‼」
ズキリと痛みが走った。
それは瞬く間に激痛へと変わり、あまりの痛さにソルマンは絶叫した。
両目を見開き、痛みから逃れようともがくが、もちろん両手両足を拘束されているため、動くことはできない。
これが続くぐらいなら、ひと思いに消滅した方がマシだと思えるほどの激痛だった。
声を裏返しながら叫びのたうち回るかつての強敵を、ルヴァンは感情のこもらない表情で見下ろしていた。
そんな彼に、ソルマンが縋るように身を乗り出す。
「も、もう、転生など、のぞま、ないっ! 魂ごと消してくれ……あ、あがっ……た、頼む……」
「心配せずともお前は消滅する。大精霊にとって精霊女王の願いは絶対だからな。なに、消滅するまで大した時間はかからない」
「ほ、本当か? これに耐えれば、か、解放される、の、か?」
「ああ」
そう頷いたルヴァンの姿が、ソルマンの目の前から消えた。
代わりに声だけが、空間一杯に響き渡る。
「この【世界】が滅びるまでの、ほんの僅かな時間だ」
ルヴァンの言葉が、ソルマンの耳の奥に木霊のように繰り返される。
世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が滅びるまで……世界が 滅びルまデ……世界 が滅 ビルま で……世界 が 滅ビるマ デ……世界 ガ 滅 びルま デ――
(ソレ ハ イツ ダ ――?)
次の瞬間、ソルマンの意識は真っ白になり、終わりの見えない激痛と絶望の中に沈んでいった。