何故ここに、隣国の王がいるのか分からなかった。
 彼の言う【迎え】という意味も。

 惨状が広がるなか、微笑みを浮かべながら私を見つめる姿は異質としか言えなかった。
 しかしどこか顔色が悪く、時折苦しそうに息を吐き出していた。

 泣いているティオナを抱きしめながら、後ずさる。
 そのとき、何かが手に当たった。

 血まみれになった護衛の遺体だった。
 ヒッと喉から声が飛び出し、思わず目をそらす。

 遺体の傷は、精霊魔法によるものだった。

 精霊たちは、心の清い人間を好む。
 自衛となると話は別だが、私利私欲で人を傷つけることを目的とした魔法には力を貸さないはず。

 心の在り方関係なく、一定の効果が得られるバルバーリ式の精霊魔法に、私は初めて恐怖を覚えた。
 
 大精霊がいない私は、無力。
 すぐにバルバーリ兵に捕らえられ、ティオナと引き離された。

 眠り薬を飲まされ、目覚めたときには、すでにバルバーリ城の敷地内にある小さな塔の一室に監禁された。
 部屋は狭く、寝具やテーブルなどの必要最低限の家具しかなかったが、整えられていた。

「やっとお前を、あの男の手から救い出すことができた」

 初めてこの部屋を訪れたソルマンが微笑んだ。
 あの男とは、ルヴァンのことだろう。

 私は座っていた椅子から立ち上がると、あの男の前まで近づき、食って掛かった。

「意味が分からない! それよりティオナは? あの子はどこにいるの⁉」

 馬車を襲撃されて以来、ティオナの姿を見ていない。もちろんこの部屋にもいない。

 不安で不安で堪らなかった。
 あの子か無事なのかを知りたかった。

 しかしソルマンは不思議そうに首を傾げると、私が一番欲しかった回答を無視し、訊ね返してきた。

「意味が分からない? お前は余に救いを求めたではないか」
「救いを……求め、た?」
「ああ、そうだ」

 ソルマンが自信満々に頷くが、私にはまったく身に覚えのない話だ。

 そもそも私がこの男と会ったのは、祝賀祭の一度きり。
 言葉すら交わしていない。

 少し節榑立った指が、私の頬に触れようと伸ばされる。
 しかしルヴァン以外の男に触れられたくはなかったため、反射的に後ずさってその手から逃れた。
 
 ソルマンはわずかに眉を顰めたが、行き場を失った手をぎゅっと握ると、ゆっくりと下におろした。形の良い唇から、小さなため息がもれる。

「ずっと不思議だったのだ。何故他の人間は、貧弱なオドしかもたぬのだろうと。何故他の人間に、精霊が視えないのだろうとな」

 貧弱なオド?
 精霊が視えない?

 まさか私と同じように、

「あなたも、オドや精霊が視えるの?」
「やはり、お前にも視えているのだな。ああ、余には視える。お前が底知れぬ量のオドを有していることも、お前の背後から膨大な精霊が生み出され、あらゆる場所に散っていく様子もな」

 そう言って私の背後に視線を向けるソルマンの光彩は、微かに光っていた。

 間違いない。

 この男は、人間でありながら精霊を視る目をもっている。
 さらに、視えないはずのオドの量を見抜き、自身も人間には持ちえない膨大な量のオドをもち、それを操る才能もある。

 ありえない。

 ありないはずなのに――目の前の男は、精霊女王として私がもつ視えない世界の常識を、いとも簡単に覆していく。

 ソルマンの瞳がすっと細められた。

「だが、やっと見つけたのだ。余と同じ人間を。余と共に生きるにふさわしい相手を。お前も、同じことを思ったのだろう? だからあのとき、余に微笑みかけたのだろう?」
「そ、そんなことのために、私を誘拐したの? 他国の領土に無断で侵入し、フォレスティ王国の民を殺して!」

 心外だと言わんばかりにソルマンは片眉を上げた。
 私の言った言葉が、本当に理解できていない様子だった。

「誘拐? だから言っただろう。余は、あの男によって、王妃という立場に縛られていたお前を救い出したのだと」

 彼の身体が私に近づく。
 怖くてさらに後ずさるが間合いを詰められ、とうとう部屋の隅まで追い詰められてしまった。

 これ以上後退できないため、ソルマンに向かって手を振り上げた。

「そんなこと私は求めていない! ティオナを返して! 私たちをフォレスティ王国に帰してっ‼」 

 私の愛する人の元へ――

 だが、

「それは無理だ、エルフィーランジュ」

 振り上げた手は、呆気なくあの男に掴まれた。
 そのままソルマンの方に引き寄せられ、息がかかりそうになるほど、互いの顔が近づく。

「お前はもう余のものだ。余とお前が結ばれれば、今よりももっと優秀な血を残せる。貧弱なオドしかもたぬ人間ではなく」
「オドの量は肉体に宿る魂によって変わる。親のオドの量は子に関係しないのだから、あなたの考えは意味をなさない!」
「そうなのか。なら、ますますお前を手放すわけにはいかない。この世界で余と同じなのは、お前だけなのだ。この先、余の伴侶として傍にいろ」
「あなたにはもうすでに伴侶がいる!」
「ああ、あの女の存在を気にしているのか? 所詮、血を残すための道具だ。お前が気にするなら消してもいい」

 ――悟った。
 
 この男に、何を言っても通じないのだと。
 この瞬間、私が言葉を失っている理由すら理解できていないはずだ。

 緑色の瞳が、嬉しくて堪らんばかりに細められる。
 傍で聞こえる息づかいが、荒いものへと変わる。
 口角があがり、唇がゆっくりと開かれる。

 背中から恐怖が這い上がった。

「愛している、エルフィーランジュ」

 掴まれたままだった手首が、強い力でベッドの方に引っ張られた。痛み以上の強い嫌悪感に、思わず悲鳴を上げてしまう。

 しかしあの男は表情一つ変えず、掴んでいた手を離した。支えをうしなった私の身体がバランスを崩し、ベッドの上に転がった。

 ソルマンが近づく。

 このまま、この男の一方的な愛とやらに蹂躙されると思うと、怖さよりも悔しさが勝った。
 
 そのとき、ソルマンの左手首に何か光るものを見た。服の袖に隠れていたため何かは分からなかったが、その中に閉じ込められている存在は分かった。

 光と闇の大精霊だ。
 ならば恐らくあの光る物は、ソルマンの霊具。

 大精霊たちは、ギアスによって霊具に捕らえられてしまったため、私の傍から姿を消したのだ。

 ありえないと思ったが、そう思うのはもうやめた。
 あの男の前に私の常識は通用しない。

 代わりに、ルヴァンと霊具の話をしたときのことを思い出した。

 もうこれしか方法はない。

 強く願う。
 私のオドが、霊具に捕らわれた精霊たちに力を与えるようにと。

 しかし次の瞬間、

「ギアス!」

 霊具を手にソルマンが叫んだかと思うと、頬に強い衝撃を受けて私の身体はベッドに沈んだ。
 
「……今のはなんだ……まさか、霊具に閉じ込めた精霊を解放しようとしたのか?」

 低い声が問う。
 先ほどとは違う怒りを押し殺したような声色に、全身が恐怖で強張った。打たれた頬が熱をもっているが、恐怖のせいか、痛みは感じられなかった。

 ソルマンの手が動いたのを見て、再び打たれる覚悟を決めた。両目を瞑り、衝撃に耐えようと全身を強張らせる。

 しかし、その手が振り下ろされることはなかった。
 代わりに、

「……っ、余計な力を使ってしまった。あの精霊を霊具に閉じ込めた際に消費したオドの回復も、まだ充分ではないのに……」

 辛そうなソルマンの声が部屋に響く。
 恐る恐る目を開けると、あの男は額に手を当てて苦しそうに呼吸をしていた。

 思い返せば、部屋に入って来たときのソルマンのオドの量が、初めて出会った時よりも減っている。顔色も悪い。

 ソルマンは、ギアスを使って光と闇の大精霊を霊具に閉じ込めた。しかし同時に大量のオドを消費したのだ。

 オドを急激に失うと身体にまで影響を及ぼす。
 意識を失えばそのまま目覚めることなく、死を迎える危険だってある。

 ソルマンの今の様子や言動から察するに、大精霊たちをギアスに封じる際、下手すれば命を失ってもおかしくない程のオドを消費したのだろう。

 そこまでして私を――手に入れたかったのだろうか。

 ソルマンの片膝がベッドの上に乗った。身を乗り出し、私の顔を覗き込むと小さく声をあげ、申し訳なさそうに眉根を寄せる。

「すまない。咄嗟に手が出てしまった。だが、余を困らせようと悪戯を仕掛ける前に考えて欲しい。お前が精霊を解放する方が早いか、それともティオナと呼んでいた赤子の命が消える方が早いかを、な」

 私は瞳を見開いた。

 この男の機嫌を損ねれば、ティオナは――

 ソルマンの両手が伸び、痛みと熱をもつ頬を包み込む。
 私は避けなかった。

「ああ、本当にすまない。お前の綺麗な頬をこんなに赤く張らしてしまって……しかし――」

 緑色の瞳がみるみる熱を帯び、ほうっというため息が洩れた。

「そんなお前も美しい」

 何も言えなかった。
 逃げる気すら起きなかった。

 ソルマンは自身の体調不良を理由に、この日は立ち去った。
 立ち去る彼の背中を見つめながら、ただ一つの言葉が浮かんで消えた。

 あれは、

 ――バケモノだ、と。