目尻を拭った彼女は、小さく笑った。

「翔平ったらね、ある朝小さな子供みたいに泣きながら、起きてきたことがあったのよ。『またダメだった、またいなくなっちゃった』って、大声で泣き叫んで。たしかそれは、秋頃だったかしらね」

 ウサギみたいな赤い瞳。原田くんとの思い出の一ページが、ひらりと舞う。

「どんな悪夢に魘されたのかしらって、しばらく心配してたんだけどね。それから数日経って、翔平ってばこう言ってきたの。『引っ越しがしたい』って。家から通えない距離に学校があるわけでもないのに、不思議でしょう?でもわたしが問い詰めたら、あの夢が関係してたの。どうも、好きな子のそばにいたかったらしいのよ。夢の中で、彼女が死んじゃったんだって」

 一筋でも二筋でも惜しみなく、涙が頬を伝っていく。
 引っ越しまでして、助けてくれて、そのうえわたしを好きでいてくれて。

 それならばどうして、どうして原田くんはわたしにその「好き」を伝えてくれなかったのだろう。最後のあの瞬間だけを除けば、今まで彼から聞かされたのは、「好き」だけがない変な告白ばかりで、わたしへの恋など愛など、一切感じてとれなかった。

 ううっと、下を向いているわたしに、原田くんのお母さんは続けた。

「わたしはね、反対したのよ。とてもじゃないけど、そんな理由でひとり暮らしのお金なんて出してあげられないから。だけどどうしてだか、お父さんが許しちゃってねぇ。男ふたりで夜な夜な話し合って、次の週末すぐに、不動産屋に走って行ってたわ」

 その話を聞くかぎり、もしかすると原田くんは、お父さんにだけは真実を伝えていたのかもしれないなと思えた。
 何度も過去を、やり直しているということを。

「瑠美さん、だっけ?」

 ふと名前を呼ばれたが、息が詰まり、虫のような声でしか返事ができなかった。

「はい……」

 原田くんのお母さんは、そんなわたしに微笑んだ。

「瑠美さん。あなたにとってはただの友人のひとりなのに、翔平がしつこくてごめんね。今日もバレンタインデーだからって、翔平が瑠美さんを勝手に追いかけまわしていたんでしょう」

 違う、違う、そうじゃない。

 そう言いたいのに、馬鹿みたいに歪み開いた口からは、はっはと細かい吐息が行き交うだけ。

「翔平が車からあなたを守ったのは、翔平が自分の意志でしたことだからね。どうか瑠美さんは、自分のせいだなんて思わないでね」

 優しさが詰まったその言葉で、原田くんの顔に目を落とす。
 それは、どこか安心したように、微笑んでいる寝顔だった。